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text:hosshinju:h_hosshinju3-01

発心集

第三第1話(26) 江州、増(まして)の叟の事

校訂本文

中ごろ、近江国に乞食しありく翁ありけり。立ちても、居ても、見る事、聞く事につけて、「まして」とのみ言ひければ、国の者、「ましての翁」とぞ名付けける。させる徳もなけれども、年ごろへつらい歩(あり)きければ、人も皆知りて、見ゆるにしたがひて、あはれみけり。

その時、大和国にある聖の夢に、この翁、必ず往生すべき由(よし)見たりければ、結縁(けつえん)のために尋ね来たりて、すなはち、翁が草の庵に宿りにけり。かくて、「夜なんど、いかなる行(ぎやう)をかするらん」とて聞けども、さらに勤むることなし。

聖、「いかなる行をかなす」と問へば、翁、さらに行なき由を答ふ。聖、重ねて言ふやう、「われ、まことは、なんぢが往生すべき由を夢に見侍(はんべ)てげれば、わざと尋ね来たるなり。隠すことなかれ」と言ふ。

その時、翁いはく、「われ、まことは一つの行あり。すなはち、『まして』と言ふことぐさ、これなり。餓ゑたる時は、餓鬼の苦しみを思ひやりて、『まして』と言ふ。寒く暑きにつけても、寒熱地獄を思ふこと、またかくのごとし。これ、もろもろの苦しみにあふごとに、いよいよ悪道を恐る。むまき味はひにあへる時は、天の甘露を観じて、執(しふ)をとどめず。もし、妙(たへ)なる色を見、すぐれたる声を聞き、かうばしき香を聞く時も、『これ、何の数にかはあらん。かの極楽浄土のよそほひ、ものにふれて、ましてていかにかめでたから ん』と思ひて、この世の楽にふけらず」とぞ言ひける。聖、このことを聞きて、涙を流し掌合はせてなむ、去りにける。

必ずしも浄土の荘厳を観ぜねども、ものにふれて理(ことはり)を思ひけるも、また往生の業(ごふ)となんなりにけり。

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発心集第三               鴨長明撰
  江州増叟事
中比近江国ニ乞食シアリク翁アリケリ立テモ居テモ
見事聞事ニツケテ。マシテトノミ云ケレバ国ノ者マシテノ
翁トゾ名付ケル。サセル徳モナケレドモ年来ヘツライア
リキケレバ人モ皆シリテ見ユルニシタガヒテ。アハレミケリ
其時大和国ニアル聖ノ夢ニ此翁必ズ往生スベキ由
ミタリケレバ結縁ノタメニ尋来テ則翁ガ草ノ菴ニヤ
ドリニケリ。カクテ夜ルナント何ナル行ヲカスルラントテ
聞ドモ更ニツトムル事ナシ聖リ何ナル行ヲカナスト問/n3l
ハ翁更ニ行ナキ由ヲ答フ聖重テ云ヤウ我マコトハ汝ガ
往生スベキ由ヲ夢ニ見侍テゲレハ。ワザト尋来也カクス事
ナカレト云フ其時翁云ク我誠ハ一ノ行アリ則マシテト云
フコトクサ是也ウヘタル時ハ餓鬼ノ苦ミヲ思ヤリテ増テト
云フ。寒クアツキニ付テモ寒熱地獄ヲ思事又如是諸ノ
苦ミニアフゴトニ。イヨイヨ悪道ヲオソル。ムマキ味ニアヘル時ハ
天ノ甘露ヲ観ジテ執ヲトドメズ若タエナル色ヲ見勝
タル声ヲキキ。カウバシキ香ヲキク時モ是何ノ数ニカハアラン
彼極楽浄土ノヨソヲヒ物ニフレテ増テイカニカ目出カラ
ント思テ此世ノ楽ニフケラストゾ云ケル聖此事ヲ聞テ/n4r
涙ヲナカシ掌合テナム去リニケル。必シモ浄土ノ荘厳ヲ
観ゼネドモ物ニフレテ理リヲ思ケルモ又往生ノ業トナン
ナリニケリ/n4l
text/hosshinju/h_hosshinju3-01.txt · 最終更新: 2017/04/29 16:50 by Satoshi Nakagawa