ユーザ用ツール

サイト用ツール


text:hosshinju:h_hosshinju2-03

発心集

第二第3話(15) 内記入道寂心の事

校訂本文

村上1)の御代に、内記入道寂心2)といふ人ありけり。そのかみ、宮仕へける時より、心に仏道を望み願うて、ことにふれてあはれみ深くなんありける。

大内記にて註(しる)すべきことあつて、内へ参りけるに、左衛門の陣3)の方に、女の、涙を流して泣き立てるあり。「何ごとによりて泣くぞ」と問ひければ、「主(しゆ)の使ひにて、石の帯を人に借りて、持ちてまかりつる道に、落して侍れば、主にも重く誡められむずらん、さばかりの大事の物を失ひたる悲しさに、帰る空も思えず、思ひやる方なくて」となむ言ふ。

心の内にはかるに、「げに、さぞ思ふらん」といとほしうて、わが差したる帯解きて、取せてけり。「もとの帯にあらねど、むなしう失うて、申す方なからんよりも、これを持ちてまかりたらむは、おのづから罪もよろしからん」とて、手をすり、喜びて、まかりにけり。

さて、方角(はうかく)に帯もなくて、隠れ居たりけるほどに、事始まりにければ、「遅し、遅し」と催(もよほ)されて、異人(ことひと)の帯を借りて、その公事をば勤めける。

中務の宮4)の、文習ひ給ひける時も、少し教へ奉りては、ひまひまに目をひさぎつつ、常に仏をぞ念じ奉りける。

ある時、かの宮より、馬を給はらせたりければ、乗りて参りける。道の間、堂塔のたぐひはいはず、いささか卒塔婆一本ある所には、必ず馬より下りて、恭敬・礼拝し、また、草の見ゆる所ごとに、馬の食(は)み止るに、心にまかせつつ、こなたかなたへ行くほどに、日たけて、朝に家を出づる人、未申の時までになむなりにけり。

舎人(とねり)、いみじく心づきなく思えて、馬を荒らかに打ちたりければ、涙を流し、声を立てて、泣き悲しみていはく、「多かる畜生の中に、かく近付くことは、深き宿縁にあらずや。過去の父母5)にもやあるらん。いかに大きなる罪をば作るぞ」と、「いと悲しきことなり」と、驚き騒ぎければ、舎人、言ふはかりなくて、まかりてぞ立ち帰りける。

かやうの心なりければ、『池亭記』とて、書き置きたる文にも、「身は朝6)にありて、心は隠(かげ)にあり」とぞ侍るなる。

年たけてのち、頭おろして、横川に上り、法文習ひけるに、僧賀上人7)、いまだ横川に住み給ひけるほどに、これを教ゆとて、「止観の明静(みやうしやう)なること前代未だ聞かず」と読まるるに、この入道、ただ泣きに泣く。聖、「さる心にて、かくやはいつしか泣くべき。あな、愛敬(あいぎやう)なの僧の道心や」とて、拳(こぶし)を握りて、打ち給ひければ、「われも、人もこそ」と、まかりて立ちにけり。

ほど経て、「さてしもやは侍るべき。この文受け奉らん」と言ふ。「さらば」と思うて読まるるに、前(さき)のごとく泣く。また、はしたなくさいなまるるほどに、後の詞(ことば)も聞かで、止みにけり。

日ごろ経て、なほ懲りずまに、御気色(おんきしよく)取りて、恐れ恐れ受け申しけるにも、ただ同じやうに、いとど泣きける時、その聖も、涙をこぼして、「まことに深き御法の尊く思ゆるにこそ」と、あはれがりて、静かに授けられける。

かくしつつ、やむごとなく、徳至りにければ、御堂の入道殿8)も、御戒なんど受け給ひけり。

さて、聖人、往生しける時は、御諷誦(おんふじゆ)なんどし給ひて、さらし布、百千賜はせける。請文には、三河入道9)、秀句書きとめたりけるとぞ。

  昔は、隋の煬帝の智者に報ぜし、千僧一人を余し。

  今は、左丞相の寂公を訪(とぶら)ふ、さらし布百千(ももち)に満てり

とぞ、書かれたりける。

翻刻

  内記入道寂心事
村上御代ニ内記入道寂心ト云人アリケリ。ソノ
カミ宮仕ケル時ヨリ。心ニ仏道ヲ望願テ事ニフレテ
哀ミ深クナン有ケル。大内記ニテ註ヘキ事有テ内ヘ
参リケルニ。左衛門陳ノ方ニ女ノ涙ヲ流シテナキ
立テルアリ。何事ニヨリテ泣ゾト問ケレバ。主ノ使ニテ
石ノヲビヲ人ニカリテ持テ罷ツル道ニ落テ侍ベレバ。
主ニモ重ク誡メラレムズラン。サハカリノ大事ノ物ヲウシ/n7r
ナヰタル悲シサニ帰ル空モヲボヘズ思ヤル方ナクテトナム
云。心ノ内ニハカルニ実ニサゾ思ラントイトヲシフテ。我サ
シタルヲヒトキテ取セテケリ。モトノ帯ニ非ネドムナシフ
失テ申ス方無ランヨリモ是ヲ持テ罷タラムハ自ラ
ツミモヨロシカラントテ。手ヲスリ喜テ罷ニケリ。サテ方
角ニヲビモ無テ隠レ居タリケル程ニ事始リニケレバ。ヲ
ソシヲソシト催サレテコト人ノ帯ヲカリテ其公事ヲハツ
トメケル。中務ノ宮ノ文習ヒ給ヒケル時モ。少シ教ヘ
奉テハヒマヒマニ目ヲヒサキツツ常ニ仏ヲソ念シ奉リケル。
有時彼宮ヨリ馬ヲ給ハラセタリケレハ乗テ参リケル。/n7l
道ノアヒタ堂塔ノ類ハイワズ。聊カ率都婆一本アル
処ニハ必ス馬ヨリ下テ恭敬礼拝シ。又草ノ見ユル
処コトニ馬ノハミトマルニ心ニ任ツツ。コナタカナタヘ行ク
程ニ。日タケテ朝ニ家ヲ出ル人未申ノ時マテニナム成ニ
ケリ。トネリイミジク心ツキナク覚ヘテ。馬ヲアララカニ打
タリケレバ涙ヲナガシ声ヲ立テ泣悲ミテ云ク。多カル
畜生ノ中ニカク近付事ハ深キ宿縁ニ非ヤ。過
去ノ父母ニモヤアルラン何ニ大ナル罪ヲバ作ゾトイト
悲シキ事也ト驚キサワキケレバ。トネリ云ハカリ
無テマカリテゾ立帰ケル。加様ノ心ナリケレバ池亭/n8r
記トテ書ヲキタル文ニモ。身ハ朝ニアリテ心ハ隠ニア
リトゾ侍ルナル。年タケテ後頭ヲロシテ横川ニ上リ法文
習ケルニ。僧賀上人未ダ横川ニ住給ケル程ニ是ヲオシユ
トテ止観ノ明静ナルコト前代未聞スト読ルルニ此
入道タタ泣ニナク。聖サル心ニテカクヤハイツシカ泣クヘキ。
アナアヒキヤウナノ僧ノ道心ヤトテ。コブシヲニギリテ打
給ケレバ。我モ人モコソト。マカリテ立ニケリ。程ヘテサテシモ
ヤハ侍ルベキ。此文ウケタテマツラント云。サラバト思テヨ
マルルニ。前ノ如クナク。又ハシタナクサイナマルル程ニ後
ノ詞モキカデ止ニケリ。日比ヘテ猶コリズマニ御気色ト/n8l
リテ恐々ウケ申ケルニモタタ同様ニイトトナキケル
時。其聖モ涙ヲコホシテ実ニ深キ御法ノタフトク覚
ユルニコソト。アハレガリテ静ニサヅケラレケル。カクシツツヤム
事ナク徳イタリニケレバ。御堂ノ入道殿モ御戒ナ
ムド受給ケリ。サテ聖人往生シケル時ハ御諷誦
ナンドシ給ヒテ。サラシ布百千タマハセケル。請文ニハ三
河入道秀句書トメタリケルトソ
  昔隋煬帝ノ智者ニ報セシ千僧ヒトリヲアマシ。今
  左丞相ノ寂公ヲ訪フ。サラシ布モモチニミテリト
  ソカカレタリケル。/n9r
1)
村上天皇
2)
慶滋保胤
3)
底本「陳(チン)」。文意によって訂正。
4)
具平親王
5)
底本の振り仮名「フホ」。一般的には「ぶも」と読むことが多い。
6)
底本「アシタ」と振り仮名があるが、「朝廷」の意味。
8)
藤原道長
text/hosshinju/h_hosshinju2-03.txt · 最終更新: 2017/04/09 21:55 by Satoshi Nakagawa