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発心集
第一第1話(1) 玄敏僧都、遁世逐電の事
校訂本文
昔、玄敏僧都1)といふ人ありけり。山階寺のやむごとなき智者なりけれど、世を厭ふ心深くして、さらに寺の交りを好ままず。三輪川のほとりに、わづかなる草の庵を結びてなむ、思ひつつ住みけり。
桓武の御門の御時、このこと、聞こしめして、あながちに召し出だしければ、遁(のが)るべき方なくて、なまじひに参りにけり。
されども、なほ本意ならず思ひけるにや、奈良の御門の御世に、大僧都になし給ひけるを、「辞し申す」とて詠める。
三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ
とてなむ、奉りける。
かかるほどに、弟子にも使はる人にも知られずして、いづちともなく失せにけり。さるべき所に尋ね求むれど、さらになし。いふかひなくて、日ごろ経にけれど、かのあたりの人はいはず、すべて、世の歎きにてぞありける。
そののち、年ごろ経て、弟子なりける人、ことの便りありて、越(こし)の方へ行きける道に、ある所に、大きなる川あり。渡し舟、待ち得て乗りたるほどに、この渡し守を見れば、頭はおつつかみといふほど生ひたる法師の、汚なげなる麻の衣着たるにてなむありけり。
「あやしの様や」と見るほどに、さすがに見なれたるやうに思ゆるを、「誰かはこれに似たる」と思ひめぐらすほどに、失せて年ごろになりぬるわが師の僧都に見なしつ。「僻目(ひがめ)か」と見れど、つゆ違ふべくもあらず。いと悲しうて、涙のこぼるるを押さへつつ、さりげなくもてなしける。
かれも見知れる気色ながら、ことさら目見あはず。走り寄りて、「いかでか、かくては」とも言ひまほしけれど、いたく人しげければ、「なかなかあやしかりぬべし。上りざまに、夜など、居給へらむ所に尋ね行きて、のどかに聞こへむ」とて、過ぎにけり。
かくて、帰るさに、その渡りに至りて見れば、あらぬ渡し守なり。まづ、目暗れ、胸ふたがりて、細かに尋ぬれば、「さる法師侍り。年ごろ、この渡し守にて侍りしを、さやうの下臈ともなく、常に心を澄まして、念仏をのみ申して、かずかずに船賃取ることもなくして、ただ今うち食ふ物などの外の物をむさぶる心もなく侍りしかば、このの郷の人も、いみじういとほしうし侍りしほどに、いかなることかありけむ、過ぎぬるころ、掻き消つやうに失せて、行方も知らず」と語るに、悔しくわりなく思えて、その月日を数ふれば、わが見あひたる時にぞありける。「身の有様を知られぬ」とて、また去りにけるなるべし。
このことは、物語にも書きて侍るとなむ。人のほのぼの語りしばかりを書きけるなり。
また、古今の歌に、
山田もる僧都の身こそあはれなれ秋はてぬれば問ふ人もなし
これも、かの玄敏の歌と申し侍り。雲・風のごとく、さすらへ行きければ、田など守る時もありけるにこそ。
近ごろ、三井寺の道顕僧都と聞こゆる人侍りき。かの物語を見て、涙を流しつつ、「渡し守こそ、げに罪なくて、世を渡る道なりける」とて、湖2)の方に舟を一まうけられたりけるとかや。
そのこと、あらましばかりにて、むなしく石山の河岸に朽ちにけれども、こひ願ふ心ざしは、なほありがたくぞ侍りし。
翻刻
発心集第一 玄敏僧都遁世逐電事 昔玄敏僧都と云人有けり。山階寺のやむことなき 智者也けれど。世を猒心深して。更に寺の交をこのまず。 三輪河のほとりに僅なる草の菴を結てなむ思つつ住 けり。桓武御門の御時此事聞食て強に食出ければ 遁へき方なくてなましゐに参にけり。されども猶本意な らす思けるにや。奈良の御門の御世に大僧都に成給 けるを辞し申とてよめる 三輪川のきよき流れにすすきてし衣の袖を又はけかさし/n5l
とてなむ奉ける。かかる程に第子にもつかはる人にも知られすして 何ちともなく失にけり。さるべき所に尋求むれど更になし。云 かゐ無て日比へにけれど彼のあたりの人はいはず。都て 世のなげきにてぞ有ける其後年来経て第子なりける 人事の便ありて。こしの方へ行ける道に或所に大なる 河あり。渡舟待得て乗たるほとに此渡守を見れば。頭はをつ つかみと云程をゐたる法師のきたなげなる麻の衣き たるにてなむ有けり。あやしの様やと見る程に。さすがに 見なれたる様に覚ゆるを。誰かは此に似たると思めくらす 程に。失て年来に成ぬる我師の僧都に見成つ。/n6r
ひがめかと見れど露たかふべくも非す。いと悲て涙のこほ るるを押つつさりけ無もてなしける。彼も見しれる気色な から殊さら目みあわず。走よりて何でかかくてはとも云まほ しけれど。いたく人しけければ中々あやしかりぬへし。上さまに 夜など居給らむ所に尋行てのどかに聞へむとて過にけり。 かくて帰さに其渡に至て見れば。あらぬ渡守也先目 くれむねふたがりてこまかに尋ればさる法師侍り年来 此渡守にて侍りしを。さやうの下臈ともなく常に心を すまして念仏をのみ申てかすかすに船ちん取事も無して。 只今うち食物などの外の物をむさぶる心も無く侍/n6l
しかば。此の郷の人もいみじふいとをしふし侍へりし程に。何なる事か 有けむ過ぬる比かきけつ様に失て行方も知らすと語るに。 くやしくわりなく覚へて其月日をかそふれば我見相たる時にぞ ありける。身の有様をしられぬとて又さりにけるなるべし 此事は物語にも書て侍るとなむ人のほのほの語しはかりを 書けるなり又古今歌に 山田もる僧都の身こそ哀れなれ秋はてぬれは問人もなし 此も彼玄敏の哥と申侍へり。雲風の如くさすらへ 行ければ田なと守る時も有けるにこそ。近比三井寺の 道顕僧都ときこゆる人侍べりき。彼物語を見て涙を/n7r
流つつ渡守こそげに罪なくて世を渡る道なりけるとて。 水海の方に舟を一まうけられたりけるとかや。其事あら ましばかりにて空く石山の河岸にくちにけれども乞願 心さしは猶ありがたくそ侍し/n7l