平中物語
第22段 またこの同じ男聞きならしてまだものは言ひ触れぬありけり・・・
校訂本文
また、この同じ男、聞きならして、まだものは言ひ触れぬありけり。「いかで、言ひつかむ」と思ふ心ありければ、つねにこの家の門(かど)よりぞ歩(あり)きける。
かうありけれど、言ひつくたよりもなかりけるを、月などのおもしろかりける夜ぞ、かの門の前、渡りけるに、女ども、多く立てりければ、馬より下りて、この男、ものなと言ひ触れけり。いらへなどしける。男、「嬉し」と思ひて、立ち留まりにけり。
この女ども、男の供なりける人に、「誰(たれ)ぞ」と問ひければ、「その人なり」とぞ、答(こた)へけるに、この女ども、「音にのみ聞きつるを」、「いざ、呼びすゑて、もの言はむ」、「いかがあると聞かむ」とて、「同じうは、この庭の月をかしきをも見せむ」と言ひければ、この男、「何のよきこと」とて、もろともに入りにけり。
女ども、集りて、簾(す)の内にて、「あやしう、音に聞きつるが、うつつに」、「よそにても、ものを言ふこと1)」と、男も女も言ひかはして、をかしき物語して、女も心つけてもの言ふありけり。
集まりて、もの言ふ中に、男も、「あやしく、嬉しくて、言ひつきぬること」など、思ひてをりけるほどに、この男の乗れる馬、ものに驚きて、引き放ちて、走りければ、童部(わらはべ)、みな馬に付きて去にければ、童(わらは)一人ぞ留まりて、見えしらがひ歩(あり)きける。されば、この男、かたはらいたがりて、招きて、「何ごとぞ」と言ひければ、「されば、早う隠れよ」とて、追ひこめてけり。
それを、この女ども、「何ごとぞ」と問ひければ、「何ごとにもあらず。馬なん、ものに驚きて、放れにける」と、男答へければ、「いな、これは夜更くるまで来ねば、妻(め)の作りごとしたるなんめり。あな、むくつけ。はかなき戯れごとさへ言ふ妻(め)持たらむものは、何にかすべき」と心憂がり、ささめきて、みな隠れぬ。
この女どもに、この男、「あな、わびしや。さらに、さもあらず」と言ひけれど、さらに聞かず。はては、もの言ひふれん人もなかりければ、よろづの言葉を独りごちけれど、さらに答(こた)へする人もなかりければ、言ひわびてぞ、出でて来にける。
さて、つとめて時雨ければ、男、かく言ひやる。
小夜中(さよなか)にうき名取川渡るとて濡れにし袖に時雨さへ降る
とある返し。
時雨のみふる屋なればぞ濡れにけん立ち隠れけむことや悔(くや)しき
とありけるに、喜びて、また、ものなど言ひやれど、いらへもせずなりにければ、言はでやみにけり。
翻刻
またこのおなしおとこききならしてまた物 はいひふれぬありけりいかていひつかんと/27オ
おもふこころありけれはつねにこのいゑの かとよりそありきけるかうありけれといひ つくたよりもなかりけるを月なとのを もしろかりける夜そかのかとのまへわたりけ るに女ともおほくたてりけれはむま よりおりてこのおとこものなといひふれ けりいらへなとしけるをとこうれしと思ひて たちととまりにけりこの女とんおとこのとも なりける人にたれそととひけれはその人 なりとそこたへけるにこの女とんおとにのみ ききつるをいさよひすゑてものいはん/27ウ
いかかあるときかむとておなしうはこのにわ のつきおかしきをも見せんといひけれは このおとこなにのよきこととてもろともに入に けり女とんあつまりてすのうちにてあや しうおとにききつるかうつつによそにても物 おいこととおとこも女もいひかはしておかしき物か たりして女も心つけてものいふありけ りあつまりてものいふなかにおとこもあ やしくうれしくていひつきぬることなと思ひ ておりけるほとにこのおとこののれるむま ものにおとろきてひきはなちてはしり/28オ
けれはわらはへみなむまにつきていにけ れはわらはひとりそととまりて見えしらかひ ありきけるされはこのおとこかたはらいたかりて まねきてなに事そといひけれはされは はやうかくれよとておひこめてけりそれ をこの女とんなに事そととひけれは何事 にもあらすむまなんものにおとろきて はなれにけるとおとここたへけれはいな これは夜ふくるまてこねはめのつくりこ としたるなんめりあなむくつけはかなき たはふれ事さへいふめもたらむものはなに/28ウ
にかすへきと心うかりささめきてみなかくれ ぬこの女とんにこの男あなわひしやさらにさも あらすといひけれとさらにきかすはてはもの いひふれん人もなかりけれはよろつのこと はをひとりこちけれとさらにこたへする人 もなかりけれはいひわひてそいててきに けるさてつとめてしくれけれはおとこかく いひやる さよなかにうきなとりかはわたるとて ぬれにしそてにしくれさへふる とあるかへし/29オ
しくれのみふるやなれはそぬれにけん たちかくれけんことやくやしき とありけるによろこひて又ものなといひ やれといらへもせすなりにけれはいはて やみにけり又このおとこしれる人ありけ/29ウ