古今著聞集 草木第二十九
652 天禄三年八月二十八日規子内親王野の宮にて御所のおもに薄蘭紫苑・・・
校訂本文
天禄三年八月二十八日、規子内親王1)、野の宮にて御所のおも2)に、薄(すすき)・蘭・紫苑(しをに)・草の香・女郎花(をみなへし)3)・萩などを植ゑさせ給ひて、松虫・鈴虫を放たせ給ひけり。人々に、やがてこの物につけて歌を奉らせられけるに、おのが心々に、われもわれもと、あるいは山里の垣根に小牡鹿(さをしか)の立ち寄り、あるは洲浜の磯に葦鶴(あしたづ)の降りゐる形(かた)を作りて、草をも植ゑ、虫をも鳴かせたり。仰せごととて、花のありさま、虫の住みか、いづれもいづれもいとをかしかりけり。
「歌の劣り優(まさ)りは、定めでやあるべき。誰(たれ)をしてか定め申すべき」と仰せ給ふに、これかれに申す。「前和泉守源順朝臣なん、おほやけには梨壺の五人がうちに定められ、宮には御許人(おもとびと)八人がうちにて候ふ人なり。これを召してこそ定めさせられめ」と申すによりて、そのこととはなくて、「今夜すぐまじき定めごとなんある」とて召したり。かみのつかさ4)・たたすゑかさ5)の大弼(おほいすけ)の君たち、あなたこなたにさぶらひ給ふ。加賀掾橘正道に読み上げさせて、順朝臣にことわらせ、学生為憲6)して今日のことを書き置かせ給ふなかに、為憲なむ同じ源といふべくもなく、千草に匂ふ花のあたり、庭も菊のやうにまじりにくくて侍れば7)、やむごとなくは深山(みやま)のもとより生ひ出でたる草のゆかりにて、仰せごとのいなび8)がたさに、心もともにつびにける水茎して奉り置く。
その歌ども、順朝臣定め申せる判、かくなん。
侍従御許
花のみな紐とく野辺にしの薄(すすき)いかでか露の結び置きけん
長門権守有忠9)
くらぶ山麓(ふもと)の野辺の女郎花露の下よりうつしつるかな
兵衛のきみ
小牡鹿のすだく麓の下萩は露けきことのなくもあるかな
もちきの朝臣
萩の葉に置く白露のたまりせば花の形見は思はざらまし
判の詞(ことば)、残りの歌ども、あまりに多くて、書きもとどめぬなり。
翻刻
天禄三年八月廿八日規子内親王野宮にて御所 のおりに薄蘭しをに草香女郎萩なとをうへさ せ給て松虫鈴虫をはなたせ給けり人々にやかて この物につけて哥をたてまつらせられけるに をのか心々にわれもわれもと或は山さとのかきねにさを/s513l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/513
しかのたちよりあるはすはまのいそにあしたつのをりゐ るかたをつくりて草をもうへ虫をもなかせたり おほせこととて花のありさまむしのすみかいつれも いつれもいとおかしかりけり哥のをとりまさりはさ ためてやあるへきたれをしてかさため申へき とおほせたまふにこれかれに申す前和泉守源順 朝臣なんおほやけには梨壺の五人かうちに さためられ宮にはおもと人八人かうちにて候 人也これをめしてこそさためさせられめと申に よりてそのこととはなくて今夜すくましきさた め事なんあるとてめしたりかみのつかさたたすゑ/s514r
かさのおほいすけのきみたちあなたこなたにさ ふらひたまふ加賀のせう橘正道によみあけさせ て順朝臣にことはらせ学生為憲してけふの事 をかきをかせ給なかに為憲なむおなし源といふ へくもなく千草ににほふ花のあたり庭もきく のやうにましりにくくて侍れはやむことなくはみ やまのもとよりをひいてたる草のゆかりにて仰 ことのなひかたさに心もともにつひにける水く きしてたてまつりをくその哥とも順朝臣さた め申せる判かくなん 侍従御許/s514l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/514
花のみなひもとく野へにしの薄いかてか露のむすひをきけん 長門権守有忠 くらふ山麓の野への女郎花露のしたよりうつしつる哉 兵衛のきみ さを鹿のすたくふもとの下萩は露けきことのなくもある哉 もちきの朝臣 萩の葉にをく白露のたまりせは花のかたみはおもはさらまし 判の詞のこりの哥ともあまりにおほくて書もととめぬ也/s515r