古今著聞集 宿執第二十三
496 孝道朝臣若かりける時さしてその病といふことなきに・・・
校訂本文
孝道朝臣1)若かりける時、さしてその病といふことなきに、なやみて日数を送りける。次第に大事になりて、飲食も通ぜずして、存命あぶなく見えければ、妙音院殿2)おほきに驚かせ給ひて、かの病席におはしまして、所労のやうくはしく御尋ねありければ、孝道、助け起こされて申しけるは、「さして痛む所も候はず。また苦しきことも候はぬが、いかにと候ふやらむ、ものの食べられ候はで、日数積もり候ひぬる間、無力にて、け弱く覚え候ふなり」と申しければ、大臣(おとど)よくよく御覧じて、「なんぢはまことの病にてはなかりけり。定輔3)が啄木(たくぼく)を病むなり。その儀ならば、たしかにもの食へ。定輔には約束したれども、経信4)の流5)の啄木を教へんずるなり。それは、なんぢ、憂へ思ふべからず。わが見ん前にてもの食へ。見て心やすく思はむ」と責めさせ給ひて、飯を水漬けにして勧めさせ給ふに、かひがひしく食ひてけり。「さればこそ」とて、御心やすくなりて、帰らせ給ひけり。
まことに道を重くせむにはあまたになりて、浅くならむことは口惜しかるべし。されば、南宮譜の序にも、「物以秘為貴。故待儥深蔵。音以希見重。故得人伝。(物は秘するを以て貴しとなす。故に儥(てき)を待ちて深く蔵す。音は希を以て重と見る。故に人を得て伝ふ。)」と侍るぞかし。悲しきかな、世末(すゑ)になりて、この道やうやく陵遅(りようち)せり。くはしく記すに憚りあり。
そもそも恐れあることなれども、このついでに申し侍るべし。後鳥羽院6)は、かの卿(定輔)に御琵琶習はせ給ひて、すでに写瓶(しやびやう)せさせ給ふべきになりにける時、孝道朝臣、北面に候ひて申し侍りけるは、「恐れはあれども、君の御琵琶は、束帯正しくしたる人の、折烏帽子着したるに似させ給ひたる」とつぶやきたるが、御所さまに漏れ聞こえにけり。すなはちかの朝臣を弓場殿の方へ召して、坊門内府7)をもて、申す所のゆゑを御尋ねありければ、孝道申しけるは、「そのことに候ふ。定輔卿の琵琶は、楽説・そのほかの手・撥合(ばちあはせ)まで、みな当流にて候ひしを、入眼(じゆげん)の啄木に至りて、桂の流を伝へたる人なり。妙音院殿、両説をきはめさせ給ひて、昔今(むかしいま)をかがみて、その淵底をあなぐらせ給ふに、当流を正として、桂流をば次にせさせ給ひて、あなかちに御秘蔵の儀なく候ひき。しかるに、かの卿の啄木は桂流なり。御尋ねあらむに、さらにかくれも候ふまじ。されば、余曲は当流にてめでたく候ふ8)。入眼に至りてかく候へば、『束帯に折烏帽子』とは喩へ申して候ふぞかし」と、へりもおかず申したりければ、内府このやうを9)奏し申されにけり。
これによりて、定輔卿をあらためて、孝道朝臣に御伝授あるべきに定まりにけるを、かの卿伝へ聞きて、騒ぎまはりて申されけるは、「はじめ10)より教へ奉らせて、御写瓶の時に至りて孝道に改められんこと、生きながら命を召さるるに異らず。年ごろ孝道をば小師につけ参らせたることにて候ふ。生涯の恨み、このこと候ふ。これほどの勅勘、何事にか候ふ。なほこの儀に定まり候はば、すみやかに定輔を配流せられ候へ」と泣く泣く申されければ、このことその謂(い)ひなきにあらねば、「不便なり」とて、なほ定輔卿に習はせ給ひにけり。
道の執心、面目をほどこすにつけても、罪深きことなり。
翻刻
孝道朝臣わかかりける時さして其病といふことなき になやみて日数ををくりける次第に大事になりて 飲食も不通して存命あふなく見えけれは妙音院 殿おほきにおとろかせ給て彼病席におはしまし/s396r
て所労のやうくはしく御尋ありけれは孝道たす けをこされて申けるはさしていたむ所も候はす又 くるしき事も候はぬかいかにと候やらむ物のたへら れ候はて日数つもり候ぬるあひた無力にてけ よはくおほえ候也と申けれはおとと能々御らんし て汝はまことの病にてはなかりけり定輔か啄木 をやむなり其儀ならはたしかに物くへ定輔には やくそくしたれとも経信の流の啄木ををしへん する也それは汝うれへおもふへからすわか見んまへ にて物くへ見て心やすくおもはむとせめさせ給 て飯を水つけにしてすすめさせ給にかひかひ敷/s396l
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くひてけりされはこそとて御心やすくなりてかへら せ給けり誠に道をおもくせむにはあまたになり てあさくならむ事はくちおしかるへしされは南 宮譜序にも物以秘為貴故待儥深蔵音以希 見重故得人伝と侍そかしかなしきかな世すゑに なりて此道やうやく陵遅せりくはしくしるすに ははかりあり抑おそれある事なれとも此次に申侍 へし後鳥羽院は彼卿(定輔)に御琵琶ならはせ給て既写 瓶せさせ給へきになりにける時孝道朝臣北面に候て 申侍けるはおそれはあれとも君の御琵琶は束帯 たたしくしたる人の折烏帽子着したるに似/s397r
させ給たるとつふやきたるか御所さまにもれき こえにけり則彼朝臣を弓場殿のかたへめして坊門 内府をもて申す所のゆへを御尋ありけれは孝道申 けるは其事に候定輔卿の琵琶は楽説其外の 手撥合まてみな当流にて候しを入眼の啄木にいた りて桂の流をつたへたる人也妙音院殿両説を きはめさせ給て昔いまをかかみて其渕底をあな くらせ給に当流を正として桂流をはつきにせ させ給てあなかちに御秘蔵の儀なく候き而彼 卿の啄木は桂流也御尋あらむに更にかくれも候ましされ は餘曲は当流にてめてたくく候入眼にいたりてかく/s397l
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候へは束帯に折烏帽子とはたとへ申て候そかしと へりもをかす申たりけれは内府これやうを 奏し申されにけりこれによりて定輔卿をあら ためて孝道朝臣に御伝授あるへきにさたま りにけるを彼卿つたへ聞てさはきまはりて申され けるはあしめよりをしへたてまつらせて御写瓶の時 にいたりて孝道にあらためられん事いきなから命 をめさるるにことならすとしころ孝道をは小師につ けまいらせたる事にて候生涯のうらみ此事候 これほとの勅勘何事にか候猶此儀にさたまり 候ははすみやかに定輔を配流せられ候へとなくなく/s398r
申されけれは此事其謂なきにあらねは不便 なりとて猶定輔卿にならはせ給にけり道の執心 面目をほとこすにつけても罪ふかき事也/s398l