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text:chomonju:s_chomonju384

古今著聞集 画図第十六

384 南殿の賢聖障子は寛平の御時始めて描かれけるなり・・・

校訂本文

南殿の賢聖障子は、寛平1)の御時、始めて描かれけるなり。その名臣といふは、馬周・房玄齢・杜如晦2)・魏徴(東より一)、諸葛亮・蘧伯玉3)・張良・第五倫(同じく二)、管仲・鄧禹4)・子産・蕭何(同じく三)、伊尹・傅説・太公望・仲山甫5)(同じく四)、李勣・虞世南・杜預・張華(西より四)、羊祜6)・楊雄・陳寔・班固(同じく三)、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛7)(同じく二)、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通(西より一)等なり。この人々の影を描かれけり。かの麒麟閣に功臣を図せられたる跡をおはれけるにや。

始めは色紙形に銘を書かれたりけり。されば道風朝臣8)の申文にも、七たびけがせるよし載せたり。その銘、いつごろより書かれずなれるにか、当時は見えず、色紙形ばかりぞ侍るめる。

承元に閑院の皇居焼けて、ずなはち造内裏(ざうだいり)ありけるに、もとは尋常の式の屋に松殿作らせ給ひたりけるを、このたびあらためて大内に模して、紫宸・清涼・宜陽・校書殿・弓場・陣の座など、要須(えうすう)所々建てそへられける。土御門の内裏のかかりける例(ためし)とぞ9)聞こえし。地形狭(せば)くて、紫宸殿の間数をしじめられける時、賢臣の影も少々留められにけり。建長の造内裏の時、少々また用捨せられける。くはしく尋ねて注(しる)すべし。大内にては、この障子をみなはなちおかれて、公事の時はかりぞ立てられける。御秘蔵(ひさう)の儀にて侍りけるにや。建暦に閑院に移されて後は、すべて取りはなたるることなし。

また、鬼の間の壁に、白沢王(はくたくわう)を描かれたることは、昔、かの間に鬼の住みけるを鎮められけるゆゑに描かれたることは申し伝へたれども、確かなる説を知らず。

また、清涼殿の弘庇(ひろびさし)に衝立(ついたち)障子を立てて、昆明池(こんめいち)を図せられたり。その裏に野を描きて、片方に屋形あり。また近衛司の鷹使ひたるを描けり、これは雑芸に侍る嵯峨野に狩せし少将の心とぞ10)。かの少将といふは、大井川のほとりに栖(す)みける季綱の少将11)のことにや。かの大井の家を出でて、嵯峨野に狩りしけるを写しけるにこそ。

また萩の戸の前なる布障子を荒海の障子と名付けて、手長足長など書きたり。その北裏は宇治の網代描けり。清少納言が枕草子に、この障子のことも見えたり。一条院12)以往(いわう)に書かれたるとこそ。

おほかた、清涼殿の唐絵にも、みな書きならはせることども侍り。渡殿(わたどの)に跳ね馬寄せ馬の障子を立てて、また同じ渡殿の北の辺、朝餉(あさがれひ)の前に馬形の障子侍り。陣の座の上に李将軍13)が虎を射たる障子を寄せかけ、校書殿には養由基が猿を射たる障子を寄せ立てたり。これみな、いづれの御時よりといふことを知らず。由緒かたがたおぼつかなし。

閑院に大内を移されて後、寄せ馬の障子、ならびに李将軍・養由が障子など、沙汰なかりけるを、四条院14)の御時、西園寺相国禅門15)修理せられける時、頭中将資季朝臣16)申し給ひて立てられたり。いと興あることなり。

この障子の絵本ども、鴨居殿の御倉17)にぞ侍るなる。建長の造内裏の時、絵所の預(あづかり)前加賀権守有房18)、絵本を持たざりければ、取り出だして描かせられけり。

昔、かの馬形の障子を金岡19)が書きたりける。夜々離れて萩の戸の萩を食ひければ、勅定ありて、その馬繋ぎたる体(てい)に書き直されたりける時、離れずなりにけりと申し伝へ侍るは、まことなりけることにや。

翻刻

南殿の賢聖障子は寛平御時始てかかれけるなり
其名臣といふは馬周房玄齢杜如海魏徴(自東一)
諸葛亮璩伯玉張良第五倫(同二)管仲刘禹子
産蕭何(同三)伊尹傅説太公望仲崩(同四)李
勣虞世南杜預張華(自西四)羊祐楊雄陳寔
班固(同三)桓栄鄭玄蘇武𠌰寛同二董仲舒文
翁賈誼叔孫通(自西一)等也此人々の影をかかれけり/s290l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/290

彼麒麟閣に功臣を図せられたる跡をおはれけるにや
始は色紙形に銘をかかれたりけりされは道風朝臣
の申文にも七度けかせるよし載たり其銘何比よ
りかかれすなれるにか当時は見えす色紙形はかりそ
侍める承元に閑院の皇居焼て即造内裏あり
けるに本は尋常の式の屋に松殿作らせ給たりける
を此度あらためて大内に模して紫宸清涼宜
陽校書殿弓場陣座なと要須所々たてそへ
られける土御門の内裏のかかりける例こそきこえし
地形せはくて紫宸殿の間数をししめられける時賢臣の
影も少々被留にけり建長の造内裏の時少々又用捨せられ/s291r
ける委尋て注へし大内にては此障子をみなはな
ちをかれて公事の時はかりそ被立ける御秘蔵の儀に
て侍けるにや建暦に閑院にうつされてのちはすへ
てとりはなたるる事なし又鬼間の壁に白澤王
をかかれたる事は昔彼間に鬼のすみけるを鎮られ
ける故にかかれたる事は申つたへたれともたしかなる
説をしらす又清涼殿の弘庇についたち障子をた
てて昆明池を図せられたり其裏に野をかきて片
方に屋形あり又近衛司の鷹つかひたるをかけ
り是は雑藝に侍る嵯峨野に狩せし少将の心こそ
彼少将といふは大井河のほとりに栖ける季綱の少将/s291l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/291

事にやかの大井の家を出て嵯峨野に狩しけるを
うつしけるにこそ又萩戸のまへなる布障子を
荒海の障子と名付て手長足長なと書たり
其北うらは宇治の網代かけり清少納言か枕草
子に此障子の事も見えたり一条院以往に被書たる
とこそ大かた清涼殿の唐絵にもみな書ならは
せる事共侍り渡殿にはね馬よせ馬の障子を立て
又おなし渡殿の北辺朝かれいの前に馬形の障子
侍り陣座の上に李将軍か虎を射たる障子を
よせかけ校書殿には養由基か猿を射たる障子を
寄立たりこれみないつれの御時よりといふ事をしら/s292r
す由緒かたかたおほつかなし閑院に大内を移されて
後よせ馬の障子并に李将軍養由か障子なと
沙汰なかりけるを四条院御時西園寺相国禅門修理
せられける時頭中将資季朝臣申給て被立たりいと
興ある事也此障子の絵本とも鴨居殿の御念
にそ侍なる建長造内裏のとき絵所の預前加々権
守有房絵本をもたさりけれは取出してかかせられけり
昔彼馬形の障子を金岡か書たりける夜々はなれて
萩戸の萩をくひけれは勅定ありて其馬つなき
たるていにかきなされたりける時はなれす成にけりと申
つたへ侍るはまことなりける事にや/s292l

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/292

1)
宇多天皇
2)
底本「杜如海」。以下、倪寛まで、人名の誤りや一般的でない表記は改めた。
3)
底本「璩伯玉」
4)
底本「劉禹」
5)
底本「仲崩」
6)
底本「羊祐」
7)
底本「𠌰寛」
8)
小野道風
9) , 10)
「とぞ」は底本「こそ」。諸本により訂正。
11)
藤原季縄
12)
一条天皇
13)
李広
14)
四条天皇
15)
藤原公経
16)
藤原資季
17)
「倉」は底本「念」。諸本により訂正。
18)
有房は不詳。「加賀」は底本「加々」。諸本により訂正。
19)
巨勢金岡
text/chomonju/s_chomonju384.txt · 最終更新: 2020/05/13 21:10 by Satoshi Nakagawa