古今著聞集 釈教第二
64 高弁上人幼くては北の院の御室に候はれけり・・・
校訂本文
高弁上人1)、幼くては北の院の御室2)に候はれけり。文学房3)参りて、その小童を見て、「この児はただ人にあらず」と相して、「まげてこの児文学に給はりて、弟子にし侍らん」と申して、取りてけり。法師になりて、高雄に住ませけるに、学問に心を入れて、あからさまにも他事もせざりけり。
文学房、高雄4)を造るとて、番匠をせさせてひしめきけること、高弁上人うるさきことに思ひて、聖教の持たるる限り抱(いだ)き持ちて、山の奥へ入りて、人も通はぬ所にて、ただ一人見られけり。昼つ方、番匠が食物を並み据ゑたる時、山の中より走り下(くだ)りて、その食七・八人か分を、やすやすと取り食ひて、また、あらぬ聖教を持ちて、帰り入りぬ。さて、山の中に二・三日も居て出でられず。かくすること、二・三日に5)一度必ずありけり。文学房、このことを聞きて、「直人(ただびと)の振舞ひにあらず、権者(ごんざ)の所為(しよゐ)なり」とぞ言ひける。
この上人、暗夜に聖教を見給ひける。大神基賢6)が子に光音といふ僧、かの上人の弟子にて侍りけり。年ごろ給仕して侍りけるが語りけるは、さしも暗き夜、火も灯さずして、聖教を見給ふとて、弟子どもに、「しかじかの所にある文とりて給へ」と言はれければ、暗(くら)まぎれに手さぐりに取りて持ちて来るを見て、「この文にはあらず。しかじかの文」などのたまひける、不思議なりし事なり。かた夕暮れに、光音を呼びて、「山寺のただ今ほどは、よに心の澄むものなり。いざ給へ、月見に」とて、房を出でて、清滝川のはたを7)上(かみ)へ三十余町ばかり山を分け入り給ひて、大きなる石あり。それに登りて、「この石は、いかにもやうある石なり。伽藍などの建ちたりける礎(いしずゑ)にもやありけん。この石、などやらん、なつかしきなり」とて、更くるまで、心を澄まして、さまざまの物語しつつ座せられけり。「寒くおはすらん」とて、その石の8)上には、いづくにあるべしとも覚えぬに、円座(わらふだ)一枚を取り出でて、光音に敷かせられける、不思議にめづらかなることなり。かの石をば、定心石とぞ名付けられける。唐の悟真寺の石に模せられけるにこそ。
また、縄床樹といふ松あり。その松、座禅にたよりありけり。正月のころ、松のもとに居て、観念せられけるに、霰(あられ)の降りければ、
岩の上松の木陰にすみ染の袖の霰やかけしその玉
「釈尊の御遺跡拝み奉らん」とて、「弟子十余人をあひ具して、天竺へ渡り侍らん」と思はれけるころ、「春日大明神にいとま申さん」とて、かの御社9)へ参られけるに、鹿六十頭、膝を折りて地に伏して、上人を敬ひけり。
その後、生所紀伊国湯浅郡へ向かはれたりけるに、上人の伯母なりける女房に付きて、春日大明神御託宣ありけるは、「われ、仏法を守護せんがために、この国に跡を垂れり。上人、わが国を捨てていづくへか行かんとする」とのたまひければ、上人申し給ひけるは、「このこと信ぜられず。まことならば、その験を示し給ふべし」と申し給へば、「なんぢ、われを疑ふことなかれ。わが山に来たりし時、六十頭の鹿膝を折りて敬ひしは、われ、なんぢが上に六尺あがりて、かけりて離れざりしゆゑに、われを敬ひしによりて、上人に向きて膝を折りしなり」。上人、また申すやう10)、「それはまことにさりき。さりながら、なほ疑ひあり。すみやかに凡夫(ぼんぶ)の振舞ひに離れたらんことを示し給へ」と申されければ、この女房、飛び上がりて、萱屋(かやや)の梁(はり)に尻をかけて座せり。その顔の色、瑠璃のごとくに青く透き通り11)、口より白き泡を垂らす。その泡、香ばしきことかぎりなし。
その時、上人、信仰して、「まことにこのやう不可思議なり。年ごろ華厳経の中に不審多かり。ことごとく解脱し給へ」と申されければ、御領状ありけり。上人、硯・紙を取り出だして、所々を書き出でて問ひ参らするに、一々に明らかに解脱し給ふ。上人、涕泣随喜して、渡海のことも思ひとどまり給ひけり。
かの白き泡の香ばしきこと、他郷まて匂ひければ、人怪しみつつ競(きほ)ひ集りて、拝み貴ぶことかぎりなかりけり。三ヶ日まで降り給はで、梁の上に御座ありける、厳重不思議なりけることなり。
上人、寛喜四年正月十九日、入滅の時、手洗ひ袈裟かけ念珠取りて、毘盧舎那五聖に向ひ奉りて、宴座(えんざ)して、みづからの頂上にして、光明真言ならびに五字陀羅尼布字観ありけり。その後高声に、
処於第四兜率天 四十九重摩尼天
昼夜恒説不退行 無数方便度人天
と唱へて、種々の述懐どもありけり。「一切法門その大意を得て12)、玉鏡をかけて一念の疑滞なし。聖教を灯明として、一塵として穢れたることなし。われ、名聞にまじはらず、利養を事とせず、この身をもて一切衆生を荘して、しかしながら、四十九重摩尼殿の御前へ参り侍らんずるなり。必ずわれを摂取せしめ給へ」とて、双眼より涙を流して、また高声にいはく、
比是大悲清浄智 利養母間慈氏尊
灌頂地中仏長子 随順思惟入仏境
と誦して、「南無弥勒菩薩」と両三反(べん)唱へて、手を上げて信仰の念仏を勧めらる。弟子三人は宝号を唱ふ。不動尊、左脇に現じ給けるゆゑに、一人をして慈救呪(じくじゆ)を誦せしめけり。また五字文殊呪を誦せしむ。
かくのごとく、諸僧、宝号を唱へ、神呪を誦する間に、現供養13)の作法をもて行法ありけり。行法終りて、唱へていはく、
我昔所造諸悪業 皆由無始貪嗔痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
と誦し終はりて、定印に住して入観あり。
やや久しくして、右脇にして臥し給ひぬ。「入滅の儀、端座・右脇の二つのやうあり。われ、釈尊御滅の儀にまかせて、右脇にして滅を取るべし。今はかき起すべからず」とのたまひて、「南無弥勒菩薩」と唱へて、巳刻に笑へるごとくにて、終り給ひにけり。異香室に満ち、すべて種々の奇瑞等、つぶさに記すにいとまあらず。
翻刻
高弁上人おさなくては北院御室に候はれけり文学房 まいりて其小童をみて此児はたた人に非すと相し/s59r
てまけて此児文学に給はりて弟子にし侍らんと申て 取てけり法師に成て高雄にすませけるに学問に心を 入てあからさまにも他事もせさりけり文学坊高雄を つくるとて番匠をせさせてひしめきけること高弁 上人うるさき事に思て聖教のもたるるかきりいたき もちて山の奥へ入て人も通はぬ所にて只一人みられけ り昼つかた番匠か食物をなみすへたる時山の中より 走くたりて其食七八人か分をやすやすととり食て又あ らぬ聖教を持て帰入ぬさて山の中に二三日も居て出 られすかくする事二三日一度必ありけり文学坊此事 をききて直人の振舞にあらす権者の所為也とそいひ/s59l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/59
ける此上人暗夜に聖教を見給ける大神基賢か 子に光音といふ僧彼上人の弟子にて侍けり年来給 仕して侍けるか語けるはさしもくらき夜火もともさすし て聖教をみ給とて弟子ともにしかしかの所にある文とりて 給へといはれけれはくらまきれに手さくりにとりてもちて 来をみて此文にはあらすしかしかの文なとの給ける不思議 なりし事也かた夕くれに光音をよひて山寺の只今程は よに心のすむ物なりいさ給へ月みにとて房を出て 清瀧川のえたをかみへ卅餘町はかり山を分入給て 大なる石ありそれにのほりて此石はいかにもやうある 石なり伽藍なとのたちたりける石すゑにもやあり/s60r
けん此石なとやらんなつかしきなりとて深るまて心をすまして さまさまの物語しつつ坐せられけり寒くおはすらんとて 其名のうへにはいつくにあるへしともおほえぬに円座一 枚を取いてて光音にしかせられける不思議にめつらかなる 事也彼石をは定心石とそ名付られける唐の悟真寺 の石に模せられけるにこそ又縄床樹といふ松ありその松 坐禅にたよりありけり正月の此松の本に居て観念 せられけるに霰の降けれは 岩のうへ松の木陰にすみ染の袖の霰やかけし其玉 尺尊の御遺跡おかみたてまつらんとて弟子十餘人 を相具して天竺へわたり侍らんと思はれける比春日大明/s60l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/60
神にいとま申さんとて彼御社へまいられけるに鹿六十頭膝 をおりて地にふして上人をうやまひけり其後生所紀 伊国湯浅郡へむかはれたりけるに上人の伯母なりける 女房に付て春日大明神御託宣ありけるは我仏法を 守護せんか為にこの国に跡を垂り上人我国を捨てい つくへかゆかんとするとの給けれは上人申給けるは此事信 せられすま事ならはその験をしめし給ふへしと申給へは 汝我を疑事なかれ我山に来し時六十頭の鹿膝を折て うやまひしは我汝かうへに六尺あかりてかけりてはなれさ りしゆへに我をうやまひしによりて上人に向て膝を 折し也上人又中様それは誠にさりきさりなから猶うたかひ/s61r
あり速に凡夫の振舞にはなれたらん事を示し給へと 申されけれは此女房飛あかりて萱屋の梁に尻をかけ て坐せり其顔の色瑠璃のことくにあをくすきことをり 口よりしろき淡を垂す其淡かうはしき事限なし その時上人信仰して誠に此やう不可思議也年来花 厳経の中に不審おほかり悉解脱し給へと申され けれは御領状ありけり上人硯紙をとり出して所々を 書出て問まいらするに一々に明に解脱し給上人涕泣 随喜して渡海の事も思ととまり給けり彼白淡のか うはしき事他郷まて匂けれは人あやしみつつきをひ あつまりておかみたうとふ事限なかりけり三ヶ日まて/s61l
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をり給はて梁の上に御坐ありける厳重ふしきなり ける事也上人寛喜四年正月十九日入滅の時手あらひ 袈裟かけ念珠取て毘盧舎那五聖に向ひ奉て宴坐 してみつからの頂上にして光明真言并五字陀羅尼 布字観ありけり其後高声に処於第四兜率天四 十九重摩尼天昼夜恒説不退行無数方便度人天と 唱て種々の述懐とも有けり一切法門其大意を工て玉 鏡をかけて一念の疑滞なし聖教を灯明として一塵と して穢たることなし我名聞にましはらす利養を事 とせす此身をもて一切衆生を荘してしかしなから 四十九重摩尼殿の御前へまいり侍らんする也かならす/s62r
我を摂取せしめ給へとて双眼より涙を流して又高声云 比是大悲清浄智利養母間慈氏尊灌頂地中仏長子 随順思惟入仏境と誦して南無弥勒菩薩と両三反唱て 手をあけて信仰の念仏をすすめらる弟子三人は宝号 をとなふ不動尊左脇に現し給ける故に一人をして慈 救呪を誦せしめけり又五字文殊呪を誦せしむかくの ことく諸僧宝号をとなへ神呪を誦する間に理供養 の作法をもて行法ありけり行法をはりてとなへて云 我昔所造諸悪業皆由無始貪嗔痴従身語意之所生 一切我今皆懺悔と誦し終て定印に住して入観あり 良久して右脇にして臥給ぬ入滅の儀端坐右脇の二の/s62l
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様あり我尺尊御滅の儀にまかせて右脇にして滅を とるへし今はかきをこすへからすとの給て南無弥勒菩薩 と唱て巳剋に咲ることくにて終給にけり異香室に みちすへて種々の奇瑞等つふさに記すにいとまあら す越後僧正親厳わかかりける時たひたひ大峯をとをり/s63r