古今著聞集 釈教第二
36 当麻寺は推古天皇の御宇に聖徳太子の御勧めによりて・・・
校訂本文
当麻寺は、推古天皇の御宇に、聖徳太子の御勧めによりて、麻呂子親王1)の建立し給へるなり。万法蔵院と号して、すなはち御願寺になずらへられにけり。
建立の後六十一年を経て、親王、夢想によりて、もとの伽藍の地を改めて、役行者(えんのぎやうじや)2)練行のみぎりに移されにけり。金堂の丈六の弥勒3)の御身の中に、金堂一搩手半(いつちやくしゆはん)4)の孔雀明王像一体をこめ奉らる。像は行者の多年の本尊なり。また、行者、祈願力によりて、百済国より四天王像飛び来たり給ひて、金堂におはします。堂前に一つの霊石あり。昔、行者、孔雀明王法を勤修(ごんじゆ)のとき、一言主明神来たりて、この石に座し給へり。
天武天皇の御宇、白鳳十四年に、高麗国の恵観僧正を導師として、供養を遂げらる。その日、天衆降臨し、さまざまの瑞相あり。行者、金峰山より法会の場に来たりて、私領の山林・田畠等、数百町を施入せられけり。
曼荼羅5)の出現は、当寺建立の後、百五十年を経て大炊天皇御時6)、横佩大臣7)といふ賢智の臣 侍りけり。かの大臣に鐘愛の女(むすめ)あり8)。その性いさぎよくして、ひとへに人間の栄耀(えいえう)を軽(かろ)しめて、ただ山林幽閑を忍び、つひに当寺の蘭若をしめて、弥陀の浄刹を望む。天平宝字七年六月十五日、蒼美を落として、いよいよ往生浄土の勤めねんごろなり。誓願を起こしていはく、「われ、もし生身の弥陀を見奉らずは、長く伽藍の門圃を出でじ」と。
七日祈念の間、同月二十日酉刻に、一人の比丘尼、忽然として来たりていはく、「なんぢ、九品(くほん)の教主を見奉らんと思はば、百駄の蓮茎を設(まう)くべし。仏種縁より生ずるゆゑなり」と言ふ。本願禅尼、歓喜身にあまりて、化人(けにん)の告(つげ)を注(しる)して、公家に奏聞す。叡感を垂れて、宣旨を下されにけり。
忍海、勅命を奉じて、近国の内に蓮の茎を催しめぐらすに、わづかに9)一両日のほどに九十余駄出で来にけり。化人みづから蓮茎をもて糸を繰り出だす。糸すでにととのほりて、始めて清き井を堀るに水出でて、糸を染むるに、その色五色なり。みな人嗟嘆せずといふことなし。
同じき二十三日の夕べ、また化人の女たちまちに来たりて、化尼(けに)に、「糸すでにととのほれりや」と問ふ。すなはちととのへるよしを答ふ。その時、かの糸をこの化女に授け給ふ。女人、藁二把を油二升に浸して、灯(ともしび)としてこの道場の乾の角(すみ)にして、戌の終りより寅の始めに至るまでに、一丈五尺の曼荼羅(まんだら)を織りあらはして、一よ竹を軸にして捧げ持ちて、化尼と願主との中に懸け奉りて、かの女人はかき消つごとくに失せて、行方を知らずなりぬ。
その曼荼羅のやう、丹青色を交へて、金玉光をあらそふ10)。南の縁は一経教起の序分、北の縁は三昧正受の旨帰、下方は上中下品来迎の儀、中台は四十八願荘厳の地なり。これ観経11)一部の誠文、釈尊誠諦の金言なり。
化尼、重ねて四句偈を作りて、示していはく、
往昔迦葉説法所(往昔、迦葉説法の所)
今来法起作仏事(今来、法起して仏事を作す)
響懇西方故我来(響12)、西方に懇ろなる故に我来たれり)
一入是場永離苦(一たびこの場に入らば永く苦を離る)云々
本願禅尼、宿願力によりて、未曾有なることを見、化人の告(つげ)によりて、不思議の言葉を聞きて、問ひていはく、「そもそも、わが善知識はいづれの所より、誰の人の来給へるぞ」。答へていはく、「われはこれ極楽世界教主13)なり。織姫はわが左脇の弟子、観世音14)なり。本願をもてのゆゑに来たりて、なんぢが意(こころ)を安慰するなり。深く件(くだん)の恩を知りて、よろしく報謝すべし」と、再三告ぐることねんごろなり。その後、比丘尼、西をさして雲に入りて去り給ひぬ。
本願禅尼、宿望すでに遂げぬることを喜ぶといへども、恋慕のやすみがたきに堪へず、
禅客去無跡(禅客去りて跡無し)
空向落日流涙(空しく落日に向ひて涙流る)
徳音留不忘(徳音留りて忘れず)
只仰変像消魂15)(ただ変像を仰ぎて魂を消す)
その後二十余年を経て、宝亀六年四月四日、宿願にまかせて、つひに聖衆の来迎にあづかる。その間の瑞相、くはしく記すに及ばず。
翻刻
当麻寺は推古天皇の御宇に聖徳太子の御すすめ によりて麻呂子親王の建立し給へるなり万法蔵院と 号して則御願寺になすらへられにけり建立の後六十一/s32r
年をへて親王夢想によりて本の伽藍の地をあらた めて役行者練行の砌にうつされにけり金堂の丈六の弥 勒の御身の中に金堂一採手半の孔雀明王像一体を こめたてまつらる像は行者の多年の本尊なり又 行者祈願力によりて百済国より四天王像とひきたり 給て金堂におはします堂前にひとつの霊石あり むかし行者孔雀明王法を勤修のとき一言主明神 来て此石に坐し給へり天武天皇御宇白鳳十四年に 高麗国の恵観僧正を導師として供養をとけら る其日天衆降臨しさまさまの瑞相あり行者金峯山 より法会の場に来て私領の山林田畠等数百町を施入/s32l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/32
せられけり曼荼羅の出現は当寺建立の後百五十 年をへて大炊天皇御時横佩大臣(藤原/尹胤)といふ賢智臣 はへりけり彼大臣に鐘愛の女あり其性いさきよく して偏に人間の栄耀をかろしめて只山林幽閑を忍ひ 終に当寺の蘭若をしめて弥陀の浄刹をのそむ 天平宝字七年六月十五日蒼美をおとして弥往生 浄土の勤ねんころなり誓願を起ていはく我もし 生身の弥陀をみたてまつらすはなかく伽藍の門圃 を出しと七日祈念のあひた同月廿日酉尅に一人の 比丘尼忽然として来ていはく汝九品の教主をみたて まつらんと思はは百駄の蓮茎を設へし仏種縁より/s33r
生する故也といふ本願禅尼歓喜身にあまりて化人 の告を注て公家に奏聞す叡感を垂て宣旨を 下されにけり忍海勅命を奉て近国の内に蓮の茎 を催しめくらすにわけかに一両日の程に九十餘駄いて きにけり化人みつから蓮茎をもて糸をくりいたす糸 すてにととのをりて始てきよき井を堀に水出て いとをそむるに其色五色也みな人差嘆せすとい ふことなし同廿三日夕又化人の女忽に来て化尼に 糸すてにととのをれりやと問則ととのへるよしをこたふ 其時彼糸を此化女に授給女人藁二把を油二舛に ひたして灯として此道場の乾角にして戌の終より/s33l
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100190287/viewer/33
寅の始に至るまてに一丈五尺の曼陀羅を織あら はして一よ竹を軸にして捧持て化尼と願主との中 に懸たてまつりて彼女人はかきけつことくに失て 行方をしらす成ぬ其曼陀羅の様丹青色を交て 金玉光をあらはふ南の縁は一経教起の序分北の縁 は三昧正受の旨帰下方は上中下品来迎の儀中臺は 四十八願荘厳の地也これ観経一部の誠文釈尊誠 諦の金言也化尼重て四句偈を作て示ていはく 往昔迦葉説法所 今来法起作仏事 響懇西方故我来 一入是場永離苦云々 本願禅尼宿願力によりて未曾有なる事を見化人の/s34r
告によりて不思議の詞を聞て問云抑我善知識はいつ れの所より誰の人の来給へるそ答曰われはこれ極楽 世界教主也織姫は我が左脇の弟子観世音也本願を もての故に来て汝か意を安慰するなり深く件恩 をしりてよろしく報謝すへしと再三告事ねんころ なり其後比丘尼西をさして雲に入てさり給ぬ本願禅 尼宿望すてに遂ぬる事をよろこふといへとも恋慕 のやすみかたきに堪す禅客去無跡空向落日流涙徳音 留不忘只仰恋像消魂そののち廿餘年をへて宝亀 六年四月四日宿願にまかせてつゐに聖衆の来迎に あつかる其間の瑞相くはしくしるすにおよはす/s34l