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- 1の21 同じ院雪いとおもしろく降りたりける冬の朝・・・
- ふに、広く開きて候ひつれば、御産成ぬと存じ候ひつる」と申しけり。 そもそも、匡衡四代に当て、中納言匡房((大江匡房))といふ人ありけり。帥(そち)になりては、江帥(がうのそち)と申しける。才智、先祖をつげり。 宇治関白((藤原頼通))、平等院を建立の時、地形の... その便なし。大門の北向きの寺や侍る」と問はせ給ひければ、右府、覚えざるよし、答へ申されけり。ただし、匡房卿、いまだ無官にて江冠者(がうくわんじや)とてありけるを、車の尻に乗せて具せられたりけるを、「彼こそ... 日本には六波羅蜜寺、空也上人の建立、みなこれ北向なり」とぞ申しける。宇治殿、ことに御感ありけり。 江帥は、まためでたき相人なりけり。清隆卿((藤原清隆))、因幡守の時、院の御使として来たれり。帥、持仏堂... と、ただ一こと言はれたりければ、この意見に付きて、渡さるまじきに定まりにけり。 さて、その返牒は、匡房、承りてぞ書かれける。 双魚難達鳳池之浪 扁鵲豈入難林之雲 この句をば、和漢ともに讃め
- 337 同じ朝臣十二年の合戦の後宇治殿へ参て戦ひの間の物語申しけるを
- 言に言はれけるを、義家の郎等聞きて、「けやけきことをのたまふ人かな」と思ひたりけり。 さるほどに、江帥((大江匡房))出でられけるに、やがて義家も出でけるに、郎等、「かかることをこそのたまひつれ」と語りければ、「さ... 、にはかに驚きて、行(つら)を乱りて飛び帰りけるを、将軍怪しみて、轡(くつばみ)を押さへて、「先年、江帥の教へ給へることあり。『それ軍、野に伏す時は、飛雁行を破る』。この野に必ず敵伏したるべし。搦手(から... 、かねてさとりぬることなれば、将軍の軍、勝ちに乗りて、武衡((清原武衡))等か軍、破れにけり。 「江帥の一言なからましかば、危なからまし」とぞ言はれける。 ===== 翻刻 ===== 同朝臣十二年合戦之後宇治殿へ参てたたかひの間 の物語申けるを匡房卿よくよく聞て器量は賢き武 者なれとも猶軍の道をはしらぬと独事にいはれけるを 義家の郎等聞て
- 184 匡房卿若かりける時蔵人にて内裏によろぼひ歩きけるを・・・
- [[index.html|古今著聞集]] 和歌第六 ====== 184 匡房卿若かりける時蔵人にて内裏によろぼひ歩きけるを・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 匡房卿((大江匡房。ただし、[[:text:kohon:kohon004|『古本説話集』4]]・[[:text:k_konjaku:k_konjaku24-52|『今昔物語集』24-52]]・『後拾遺和歌集』... :jikkinsho:s_jikkinsho03-02|『十訓抄』3-2]]は『古今著聞集』と同じく匡房。))若かりける時、蔵人にて内裏によろぼひ歩(あり)きけるを、さる博士なれば、女房たちあなづりて、御
- 3の2 匡房卿若かりける時蔵人にて内裏によろぼひ歩きけるを・・・
- 十訓抄 第三 人倫を侮らざる事 ====== 3の2 匡房卿若かりける時蔵人にて内裏によろぼひ歩きけるを・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 匡房卿((大江匡房。ただし、『後拾遺和歌集』『匡衡集』によると、大江匡衡のエピソード。))、若かりける時、蔵人にて、内裏によろぼひ歩(あり)きけるを、さる博士なれば、女房たち、侮(あなづ)りて、御簾のきはに呼び寄せて、「これ弾き給へ」とて、和琴を押し出だしたりければ、匡房、とりもあへず、 逢坂の関のあなたもまた見ねばあづまのことも知られざりけり 女房たち、返しえ
- 82 匡房中納言は太宰権帥になりて任に赴かれたりけるに・・・
- [[index.html|古今著聞集]] 政道忠臣第三 ====== 82 匡房中納言は太宰権帥になりて任に赴かれたりけるに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 匡房中納言((大江匡房))は、太宰権帥になりて任に赴かれたりけるに、道理にて取りたる物をば舟一艘に積み、非道にて取りたる物をばまた一艘に積みて上(のぼ)られけるに、道理の舟は入海してけり。非道の舟、平らかに着きてければ、江帥(がうのそつ)言はれけるは、「世は早く末になりにたり。人いたく正直なるまじきなり」とぞ侍りける。それ
- 120 江中納言匡房卿承徳二年都督に任じて下りけるに・・・
- [[index.html|古今著聞集]] 文学第五 ====== 120 江中納言匡房卿承徳二年都督に任じて下りけるに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 江中納言匡房卿((大江匡房))、承徳二年((堀河天皇の時代))、都督に任じて下りけるに((「けるに」は底本「けりに」。諸本により訂正。))、同じき康和三年に、都督、夢想のことありて、安楽寺((「安楽寺」は底本「安某寺... 」は底本「之」。文意により訂正。))暮雨、花尽巫女之台。嫋々秋風、人下伍子之廟。古今相隔、幽奇惟同。匡房五稔之𥙖((𥙖は禾+共))已満。待春漸艤江湖之舟。并観之期難知。何日復列廟門之籍。 >>社稷の臣、政
- 258 嘉保二年八月八日院に行幸ありて相撲を御覧ぜられける・・・
- ==== 嘉保二年八月八日、院((白河院の御所。))に行幸ありて、相撲(すまひ)を御覧ぜられける。江帥((大江匡房))、兼日(けんじつ)に式を作りて奉りける時、舞人狛光季申しけるは、「万歳楽(まんざいらく)をとどめ... 説は賀殿同じかるべし。一つには舞興賀殿まされり。一つにはこの院新造たり。賀殿の儀あひかなへり」。 江帥、このよしを奏せられければ、しかるべきよし、勅定ありて、まづ賀殿・地久(ちきう)を 奏しけり。その時... る。 ===== 翻刻 ===== 嘉保二年八月八日院に行幸ありて相撲を御覧せられ ける江帥兼日に式をつくりてたてまつりける時舞人 狛光季申けるは万歳楽をととめて賀殿を奏せんと思 その... .jp/biblio/100190287/viewer/172 此院新造たり賀殿の儀あひ叶へり江帥このよしを奏せ られけれはしかるへきよし勅定ありてまつ賀殿地久を 奏しけり其時の内裏は堀川院
- 367 承元元年より三ヶ年が間新日吉の小五月会に・・・
- 舎人一人、口に付きて、禄二領賜はりけり。ことに叡感ありけるとぞ。 かやうの時、面懸押し外すことは、江帥((大江匡房))、記しおかれたるは、「馳せ出だして百の術あり」と侍るなる、その一つなりとぞ。 ===== 翻刻... けり舎 人一人口に付て禄二領給りけりことに叡感あり けるとそかやうの時おもかひをしはつす事は江帥記し をかれたるは馳出して百の術ありと侍なる其一 なりとそ/s269l http://ko
- 657 堀河院の御時五月五日江帥菖蒲を奉りたりける状に・・・
- ・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 堀河院((堀河天皇))の御時、五月五日、江帥((大江匡房))菖蒲を奉りたりける状に、 進上 水辺昌蒲 千年五月五日 大江為武 この... やめ草千年(ちとせ)のさつきいつかたえせん ===== 翻刻 ===== 堀河院御時五月五日江帥昌蒲をたてまつり たりける状に 進上 水辺昌蒲 千年五月五日
- 第179段 入宋の沙門道眼上人一切経を持来して六波羅のあたり・・・
- を講じて、那蘭陀寺(ならんだじ)と号す。 その聖の申されしは、「『那蘭陀寺は、大門北向きなり』と、江帥(ごうそち)((大江匡房))の説とて言ひ伝へたれど、西域伝((大唐西域記))、法顕伝((仏国記・高僧法顕伝))などにも見えず。さらに所見なし。江帥は、いかなる才覚にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺は、北向き勿論なり」と申しき。 ===... とに首楞厳経を講 じて那蘭陀寺と号す。其聖の申 されしは。那蘭陀寺は大門北むきなりと。 江帥の説とて云つたへたれど。西域伝、 法顕伝などにもみえす。更に所見なし。 江帥は如何なる才覚にてか申されけん。 覚束なし。唐土の西明寺は北むき勿 論なり。と申き/k2-35r http:/
- 457 敦光朝臣江帥の旧宅を過ぐとて・・・
- 旧宅を過ぐとて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 敦光朝臣((藤原敦光))、江帥((大江匡房))の旧宅を過ぐとて、 往時渺((「渺」は底本「眇」。文脈により訂正。))茫共誰語 往時渺茫(べ... たりける。 ===== 翻刻 ===== 系図に註せるおほつかなき事也尋侍へし敦光 朝臣江帥の旧宅をすくとて往時眇茫共誰 語閑庭唯有不言花と作りたりけるいとあはれに こそ侍れ後京極殿詩
- 481 いづれの年のことにかありけむ高陽院にて競馬ありけるに・・・
- り。不思議のことなり。 このこと、いづれの日記に見えたりといふこと確かならねど、かく申し伝へたり。江帥((大江匡房))の記されたるは、宇治殿の御記((藤原頼長の『台記』を指す。以下「昔有駿馬・・・」は、『台記』に見られる匡房の著書からの引用。))に、「昔有駿馬。負競馬、食殺其乗尻。到坂東成神云々。(昔駿馬有り。競馬に負け、... にけりふしきの事也此事いつれの日記に見え たりといふことたしかならねとかく申つたへたり 江帥のしるされたるは宇治殿御記に昔有駿馬 負競馬食殺其乗尻到坂東成神云々かかるためし も侍りける
- 658 嘉保二年八月二十八日上皇鳥羽殿にて前栽合ありけり・・・
- よりて両座に分かれけるなり。方人、左、右衛門督(公実)((藤原公実))・藤中納言(基忠)・江中納言(匡房)((大江匡房))、右、左衛門督(俊実)((源俊実))・治部卿(通俊)((藤原通俊))・宰相中将(宗通)、みな直衣。大殿は烏帽子・直衣なり。 まづ右方の人々((「人々」は底本「人に」。諸本により訂正。)... o/100190287/viewer/519 方人左右衛門督(公実)藤中納言(基忠)江中納言(匡房) 右左衛門督(俊実)治部卿(通俊)宰相中将(宗通)みな 直衣大殿は烏帽子直衣也先右方の人に
- 1の53 江匡房記いはく和歌の道にとりて往年六人の党あり・・・
- 十訓抄 第一 人に恵を施すべき事 ====== 1の53 江匡房記いはく和歌の道にとりて往年六人の党あり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 江匡房記((大江匡房の日記。『江記』ともいう。散逸。))いはく、 和歌の道にとりて往年六人の党あり。いはゆる、範永((藤原範永))・棟仲((平棟仲))・頼実((源頼実))・兼長((源兼長))・経衡((藤原経衡... 生き残るよし、安からぬことなり」とて、返歌に及ばざりけり。 ===== 翻刻 ===== 江匡房記云和哥道ニ取テ往年六人ノ党アリ、所 謂範永棟仲頼実兼長経衡頼家等也、年ヲヘテノ チ此輩逝去
- 巻1第3話(3) 無縁僧帷返
- しな。「あはれ、この乞食の人の心のごとくなる思ひが、須臾ばかりつけかし」と思えて侍る。 このこと、江帥((大江匡房))の『往生伝』にしるし載せ給へり。見捨がたさに、たくみの言葉をいやしげに引なし侍るなり。見及ばざる... 生死の無常に 侍るそかしな哀此乞食の人の心のことくなる思か須臾 はかり付かしと覚えて侍る此事江帥の往生伝に 注載給へりみ捨かたさにたくみの詞をいやしけに 引なし侍る也見およはさるには非す彼