今物語
松殿1)の思はせ給ひける女房、かれがれになり給ひて後、はかなき御情けだにも稀(まれ)なりければ、我ながら、あらぬかとのみ頼り侘び、人の心の花にまかせて、月日をむなしく移りゆくに、宮の鶯、百囀(ももさへづり)すれども、思ひあれば、聞くことをやめつ。梁(うつばり)の燕(つばくらめ)、並び住めども、身を知れば妬まず。遅々たる春の日も、一人住めば、いとど暮れやらず。蕭々(せうせう)たる秋の夜は、むなしき床に、明かしがたく過ぐしけるに、事のよすがやありけむ、迎へに御車を遣はされたりける。
夢うつつとも分きかね、辛し嬉しとも思ひ定めず。さればとて、今更待ち喜び顔ならんも、いたうつれなく、身ながらも、なかなか疎(うと)ましかりぬべければ、「これにこそ、日ごろの尽きせぬ2)歎きも表さめ」と思ひ強りて、丈(たけ)に余りたりける髪を押し切りて、白き薄様に包みて、
今更に再び物を思へとやいつも変らぬ同じ憂き身に
と書き付けて、御車に入れて参らせたりける。
この人は、後にはみそ野の尼とて、近くまでも聞こえしとかや。
松殿のおもはせ給ひける女房かれかれになり給ひて後は/s15l
かなき御なさけたにもまれなりけれは我なからあらぬかと のみたよりわひ人の心の花にまかせて月日をむなしく うつりゆくに宮のうくひす百さえつりすれともおもひ あれはきく事をやめつうつはりのつはくらめならひ すめとも身をしれはねたますちちたる春の日もひとり すめはいととくれやらすせうせうたる秋の夜はむなしき床 にあかしかたくすくしけるに事のよすかやありけむ むかへに御車をつかはされたりける夢うつつともわきかね つらしうれしともおもひさためすされはとていまさらまち よろこひかほならんもいたうつれなく身なからも中々 うとましかりぬへけれはこれにこそ日ころのつきとぬ なけきもあらはさめとおもひつよりてたけにあまり たりけるかみををしきりてしろきうすやうにつつみて/s16r
いまさらにふたたひ物をおもへとやいつもかはらぬ同しうき身に と書つけて御車にいれてまいらせたりけるこの人は 後にはみそ野のあまとてちかくまてもきこえしとかや/s16l