世継物語 ====== 第52話 閑院の大臣冬嗣と申す人の御子、内舎人良門と申しけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 今は昔、閑院の大臣(おとど)冬嗣(ふゆつぎ)と申す人の御子、内舎人良門(うどねりよしかど)と申しけり。昔はやむごとなき人も、内舎人にてなり給ひける。 その御子、高藤(たかふぢ)と申す、おはしけり。若くより鷹をなん好み給ひける。父の内舎人殿も好み給ひければ、この末も伝へて好み給ふなるべし。 二十ばかりにおはしけるほどに、九月ばかりに鷹狩に出で給ひぬ。山科のないしやの岡つかひ給ふに、申の時ばかりに、かき暗がりて、大なる雨降り、風吹き、かみ鳴りければ、人々、「宿りせむ」とて、向きたる方にみな馳せ散らして往ぬ。 この君、西の方に人の家のみ見ゆるに、馬を走らせておはしぬ。御供に馬飼ひ男一人なん侍りける。小さき門のうちに入り給ひぬ。馬も引き入れて、舎人男いたり。君は板敷に尻うちかけておはしけり。雨風まさり神鳴りて、恐しければ帰り給ふべきやうもなし。日も暮ぬ。 「いかにせん」と心細く思して居給へるに、青鈍(あをにぶ)の狩衣・袴着たる男の、歳四十斗なるが出で来て「こは何人のかくてはおはしますぞ」と言へば、「鷹仕に出でたりつるに、かかる雨に遭ひて行くべき方もなくて、馬の向きたるに任せて走らせつるに、家の見えつれば、喜びて来たるなり。いかがせんずる」とのたまへば、翁、「雨いたく降らん時はかくておはしませかし」と言ひて、馬飼の男のもとによりて「誰(た)がおはしますぞ」と問ひければ、「しかじかの人のおはしますなり」と言ひければ、その時に経営(けいめい)してとりしつらひ、火灯しなどすめり。 とばかりありて、「あやしのやうに候へど、うちへこそおはしまさめ。御衣(おんぞ)もいたく濡れさせ給ひて候ふめり。干してこそ奉らめ。御馬に草かはでは、いかで候はん。あの後の方へ引き入て」など申す。「あやしの家なれども、ゆへひておかしく住みたれば、無下の者にはあらざりけり」と思して、また、かくてあるべきにもあらねば、入り給ぬ。 あじろを天井にはしたり。筵屏風を立てたり。きよげなる高麗べり((底本傍注「はじイ」。今昔物語集「端」))の畳、三帖ばかり敷きたり。入りて苦しければ、寄り臥し給ひぬ。御狩衣、御指貫など取りて翁入りぬ。 しばしばかり臥して見給へば、庇の方の遣戸を上げて、十三四ばかりなる女の、裏濃き蘇芳(すわう)の衣(きぬ)一重ね、濃き袴着たる、扇さし隠して、片手に高坏(たかつき)を持ちて、恥ぢしらひて、遠くそばみてゐたるを見給へば、頭つき細やかに、髪のかかり、額つき、かやうの者のことも思えず。いとをかしきなり。 高坏に折敷(おしき)据ゑて、土器(かはらけ)に箸を置きて持て来たりけり。前に置きて返りぬ。行うしろて、髪のふさやかに、よほろ((底本「よをろ」。今昔物語集「末膕」。ひざの裏側のくぼんだ部分。))には過ぎたりと見えたり。また、則、折敷に物を据ゑて持て来ぬ。幼なけれど、さかしくもすへず。ゐざり退きて居たれば、姫((姫飯。))をして、小大根((今昔物語集による。底本「こをほね」))・鮑(あはび)・干し鳥・鱁鮧(うるか)などして参らせたるなりけり。  日井とねこうこう((今昔物語集「終日(ひねもす)鷹仕ひ行き給て、極(こう)じ」))給ひたるに、「かく参らせたれば、下衆の者なれどいかがせん」と思して参りぬ。夜も更けぬれば、臥し給ひぬ。このありつる人の心につきておぼえ給ひければ「一人臥したるが恐しきに、ありつる人、ここに来てあれ」とのたまへば、参らせたりと、「寄れ」とてひき寄せて臥し給ひぬ。近き気配、よそに見つるよりは、こよなう((底本傍注「くイ」))気高う、なつかしう、らうたし。あはれにおぼす。 「かやうのほどの者の娘にては、いかでかかくはあらむ」と、あさましく思え給ひければ、まめまめしく行く末までの事を契り給ひけり。長月なれば、夜も長きに、つゆまどろまれず。あはれに思え給ふままに、返す返す契り給ふ。夜も明けぬれば、「出で給ふ」とて、帯き給へる太刀を、「かたみ置きたれ」とて、「ゆめゆめ親心浅く人合はすとも、人見る事すな」と言ひつつ、いてもやらず、返す返す契り置きて出で給ひぬ。 馬に乗りて、四五十町ばかりおはするほどになん、御供の人々、ここかしこより尋ね奉りて、来合ひてあさましがり、喜びける。 さて、殿に帰り給ひぬ。父殿、「昨日出させ給ひしままに、見え給はずなりぬれば、いかにしつる事にか」と思し明かして、明くる遅きと、人出だしたてて尋ね給ふほどに、おはしたれば、「うれし」と思して「若きほどに、かかる歩きする事、悪き事なり。我心にまかせて、鷹仕歩きしを、故殿のつゆ制し給はざりしかば、これもまかせて歩かするに、かかる事のあれば、いとうしろめたし。今よりかかる歩きなせそ((底本「とる」。「そ」を二字に分解した誤写だろう))」とて、鷹仕給はずなりぬ。御供ともの人々も、この家を見ずなりにしかば、尋ぬべきやうもなし。とねりおとこは、いとま申して田舎へ往ぬ。わりなく悲しく思はせ給へど、人やるべきやうもなし。月日はすぐれど、恋ひしさはいやまさりにて、心にかからせ給はぬ時もなし。 四・五年にもなりぬ。父殿、はかなく失せ給ひぬれば、叔父の殿ばらの御もとにかよひてぞ過し給へる。親も失せて心細く思え給ふままには、この見し人の恋しく思え給へば、妻もまうけで過し給ふほどに、六年ばかりになりぬ。 この御供にありし舎人男、田舎より上りて参りたりと聞かせ給ひて、御馬召し出でて、飼はせはだけさせなどせさせ給ふ。さて、御前近く参りたるに、この男に、「一とせ、雨宿りしたりし家は覚ゆや」と問ひ給へば、「いかが。思え候ふ」と申しければ、「嬉し」と思して「今日、行かんとなん思ふ。鷹つかうやうにてあれ」と仰せられて、御供には帯刀(たちわき)なるものの、むつまじく召仕けるを具して、阿弥陀の嶺越えにおはしぬ。 日入るほどになん、かしこにおはし着きたりける。如月の中の十日のほどなれば、前なる梅、ところどころ散りて、鶯こずゑに鳴き、遣水に花散りて流るるを見る。いみじうあはれなり。 ありしかとこうち入りて、家主の男召し出せば、思はずにおはしましたるがうれしさに、手惑ひをして参りたり。「ありし人はありや」と問はせ給へば、候ふよし申す。喜びながら、おはせし所に入り給へれば、几帳の内にはた隠れて居たり。見給へば、見しよりはこよなくねびまさりて、あらぬ物にめでたく見ゆ。かたはらに居つつ、六つばかりの女子の、えもいはずめでたきいたり。「これは誰そ」とのたまへば、うち俯(うつぶ)して泣くにやあらんと見ゆれば、はかばかしう答(いら)ふる事もなければ、心得ず思えて「この家なる人やある」と召せば、父男(をのこ)参りゐて、ひさがり居たり。 「この児(ちご)のあるは誰(たれ)ぞ」と問ひ給へば、「一とせおはしましたりし後、人のあたりにまかりよる事も候はず。幼く候ふ物なれば、おはしまして後より、ただならずなりて生れて候ふなり」と言ふままに、いみじくいよいよあはれになりぬ。枕上(まくらがみ)を見れば、置きし太刀あり。「さは、かく深き契りなりけり」と思ふも、いよいよあはれに思す事限りなし。かくて、その夜とどまりて、またの日帰り給ふ。 「この家あるじ、何人にかあらん」と思して尋ね問ひ給へば、「この郡の大領、宮道の弥益(みやじのいやます」))」と言ひ侍る。「かかるあやしき物の娘なれど、さるべき先の世の契りこそあらめ」と思して、またの日、筵(むしろ)ばかりの車に下簾かけて、侍(さぶらひ)二三人ばかり具しておはしぬ。車寄せて、この女乗せ給ふ。無下に人無からんも悪しければ、母を召し出でて乗せらる。四十ばかりの女の、さすがにかはらかなるさまして、さやうの物の妻(め)と見えたり。わかり色の衣に、髪きこめて乗りぬ。殿におはして、西の対にしつらひ下し給ふ。 また、人の方に目も見やられ給はず見給ふほどに、うち続き、男子(おのこご)二人生みつ。やむごとなくおはする人なれば、ただなりになりあがり給ふ。大納言になり給ひぬ。この姫君は、宇多の院位におはしますに、女御に参らせ給ふ。さて、いくばくもなくて醍醐の御門をば生み奉り給へるなりけり。男二人は、泉の大将と申す。その弟、三条右大臣となん申しける。このおほぢの大領弥益は四位になりて、刑部大輔にぞなりたりける。醍醐の御門、位につかせ給ひければ、大納言は内大臣になり給ひにけり。弥益が家は今の勧修寺なり。向ひの東の山づらに、むは((今昔物語集「妻」))の家には堂を建てたり。その寺をば大やけ寺となんいふ。この弥益が家のあたりを、あはれと思すにやありけん、醍醐の御門の御陵は、近くせられたりとなん。 ===== 翻刻 ===== 今は昔閑院のおとと冬つきと申人の御子内舎人 よしかとと申けり昔はやむ事なき人もうとねりにて 成給ひける其御子たかふちと申おはしけりわかくよ り鷹をなんこのみ給ひける父のうとねり殿も好給 けれは此すゑもつたへて好給ふ成へし廿はかりに/32オ おはしける程に九月はかりに鷹狩に出給ぬ山しな のないしやの岡つかひ給ふに申時はかりにかきくら かりて大なる雨降風吹神なりけれは人々やとりせ むとてむきたる方にみなはせちらしていぬこの君に しの方に人の家のみ見ゆるに馬を走らせておはし ぬ御ともに馬かひ男一人なん侍けるちいさき門のうち に入給ぬ馬も引入てとねりおとこいたり君は板敷 にしりうちかけておはしけり雨風まさり神なりて おそろしけれは帰給ふへきやうもなし日も暮ぬい かにせんと心ほそくおほしてゐ給へるにあをにふの狩/32ウ 衣袴きたるおとこの歳四十斗なるかいてきてこはな に人のかくてはおはしますそといへは鷹仕に出たり つるにかかる雨にあひて行へきかたもなくて馬のむ きたるにまかせてはしらせつるに家の見えつれはよろ こひてきたる也いかかせんするとの給へは翁雨いたく ふらん時はかくておはしませかしといひて馬飼のおと この許によりてたかおはしますそととひけれはしか しかの人のおはします也といひけれは其時にけいめ いしてとりしつらひ火ともしなとすめりとはかり有て あやしのやうにさふらへとうちへこそおはしまさめ御そ/33オ もいたくぬれさせ給てさふらふめりほしてこそ奉らめ 御馬に草かはてはいかて侍らはんあのうしろの方へ 引入てなと申あやしの家なれともゆへひておかしく すみたれはむけの物にはあらさりけりとおほして又 かくてあるへきにもあらねは入給ぬあしろをてん上に はしたり筵屏風をたてたりきよげなるかうらひ へり(はしイ)のたたみ三帖はかり敷たり入てくるしけれはよ りふし給ぬ御かりきぬ御指貫なととりておきな入 ぬしはしはかりふして見給へはひさしの方のやりと をあけて十三四はかりなる女のうらこきすわうの/33ウ きぬ一かさねこきはかまきたる扇さしかくしてかたてに たかつきをもちてはちしらひてとをくそはみてゐ たるを見給へは頭つきほそやかにかみのかかりひた いつきかやうの物のこともおほえすいとおかしき也 たかつきにおしきすへてかはらけにはしををきても てきたりけりまへにをきてかへりぬ行うしろてかみ のふさやかによをろには過たりと見えたり又則折 敷に物をすへてもてきぬおさなけれとさかしく もすへすゐさりのきてゐたれはひめをしてこをほね あはひほしとりうるかなとしてまいらせたる也けり日/34オ 井とねこうこう給たるにかくまいらせたれはけすの物 なれといかかせんとおほしてまいりぬ夜もふけぬれは ふし給ぬ此ありつる人の心につきておほえ給けれは ひとりふしたるかおそろしきにありつる人ここにきて あれとの給へはまいらせたりとよれとてひきよせ てふし給ひぬちかきけはひよそに見つるよりはこ よなう(くイ)けたかうなつかしうらうたしあはれにおほ すかやうのほとの物の娘にてはいかてかかくはあら むとあさましくおほえ給けれはまめまめ敷行末 まての事を契り給けりなか月なれは夜もなか/34ウ きに露まとろまれすあはれにおほえ給まま に返々契り給夜も明ぬれは出給とてはき給へる 太刀をかたみをきたれとてゆめゆめおや心あさく 人あはすとも人みる事すなといひつついてもやら す返々契りをきていて給ぬ馬に乗て四五十 町はかりおはする程になん御ともの人々ここかしこよ り尋ね奉りてきあひて浅ましかりよろこひけるさ て殿に帰り給ひぬちち殿昨日出させ給ひしままに 見え給はす成ぬれはいかにしつる事にかとおほし あかしてあくるをそきと人いたしたてて尋ね給ふ程/35オ におはしたれはうれしとおほしてわかき程にかかる ありきする事あしき事也我心にまかせて鷹仕 ありきしをこ殿のつゆせいし給はさりしかは是も まかせてありかするにかかる事のあれはいとうし ろめたしいまよりかかるありきなせとるとて鷹仕 給はす成ぬ御ともの人々もこの家をみす成にしか は尋ぬへきやうもなしとねりおとこはいとま申 てゐ中へいぬわりなく悲しく思はせ給へと人やる へきやうもなし月日はすくれとこひしさはいやま さりにて心にかからせ給はぬ時もなし四五年にも/35ウ 成ぬちち殿はかなくうせ給ぬれはをちの殿はらの 御もとにかよひてそすこし給へるおやもうせて心ほ そくおほえ給ままには此みし人の恋しくおほえ給 へはめもまうけてすこし給ふ程に六年はかりに 成ぬ此御ともに有しとねり男ゐ中よりのほりて 参たりときかせ給ひて御馬めしいててかはせはたけ させなとせさせ給さておまへ近く参たるに此男に 一とせ雨やとりしたりし家は覚ゆやととひ給へは いかかおほえさふらふと申けれは嬉しとおほしてけふ いかんとなん思ふ鷹つかうやうにてあれとおほせ/36オ られて御ともにはたちわきなるもののむつましく 召仕けるをくしてあみたの嶺こえにおはしぬ日入 程になんかしこにおはしつきたりけるきさらきの中 の十日の程なれはまへなる梅ところところ散て鶯 木すゑに鳴やり水に花散てなかるるをみるいみ しうあはれ也ありしかとこうちいりて家主の おとこ召出せは思はすにおはしましたるかうれ□ さにてまとひをしてまいりたり有し人はありや ととはせ給へはさふらふよし申よろこひなからおはせ し所に入り給へれは木丁のうちにはたかくれてゐた/36ウ り見給へは見しよりはこよなくねひまさりてあらぬ 物にめてたくみゆかたはらにゐつつ六はかりのをん な子のえもいはすめてたきいたりこれはたそとの 給へはうちうつふしてなくにやあらんとみゆれははか はかしういらふる事もなけれは心えすおほえて此 家なる人やあるとめせはちちをのこまいりゐてひさ かりゐたりこのちこのあるはたれそと問給へは一とせ おはしましたりし後人のあたりにまかりよる事もさ ふらはすおさなく候物なれはおはしまして後より たたならす成て生れてさふらふ也といふままにいみし/37オ くいよいよ哀に成ぬまくらかみをみれは置し太刀 ありさはかくふかき契り也けりとおもふもいよいよ哀 におほす事かきりなしかくて其夜ととまりて又の 日帰り給此家あるしなに人にかあらんとおほして尋 とひ給へは此郡の大りやうみやちのいやますといひ 侍るかかるあやしき物の娘なれとさるへきさきの 世の契りこそあらめとおほして又の日むしろはか りの車に下すたれかけてさふらひ二三人はかりくし ておはしぬ車よせてこの女のせ給むけに人なからん もあしけれは母をめしいててのせらる四十はかりの女の/37ウ さすかにかはらか成さましてさやうの物のめと見え たりわかり色のきぬにかみきこめて乗ぬ殿におは して西の対にしつらひおろし給又人の方にめも見 やられ給はすみ給ふ程にうちつつきおのここ二人う みつやむ事なくおはする人なれはたた成になり あかり給ふ大納言に成給ひぬ此姫君はうたのゐん 位におはしますに女御にまいらせ給さていくはくも なくて醍醐の御門をはうみ奉り給へる也けりお とこ二人はいつみの大将と申其弟三条右大臣と なん申ける此おほちの大りやういやますは四位に/38オ 成て刑部大輔にそ成たりけるたいこの御門位につ かせ給けれは大納言は内大臣に成給にけりいやます か家は今の勧修寺也むかひの東の山つらにむは のいへにはたうを立たり其寺をは大やけてらとなん いふ此いやますか家のあたりをあはれとおほすにや ありけんたいこの御門の御ささきはちかくせられ たりとなん/38ウ