宇治拾遺物語 ====== 第177話(巻14・第3話)経頼、蛇に逢ふ事 ====== **経頼蛇ニ逢事** **経頼、蛇に逢ふ事** ===== 校訂本文 ===== 昔、経頼といひける相撲(すまひ)の家の傍らに、古川のありけるが、深き淵なる所ありけるに、夏、その川の近く、木陰のありければ、帷(かたびら)ばかり着て、中結ひて、足駄履きて、またふり杖といふものつきて、小童一人供に具して、とかく歩(あり)きけるが、「涼まん」とて、その淵の傍らの木陰にゐにけり。 淵青く、恐しげにて、底も見えず。蘆(あし)・薦(こも)などいふもの、生ひしげりけるを見て、汀(みぎは)近く立てりけるに、あなたの岸は六・七段ばかりはのきたるらんと見ゆるに、水のみなぎりて、こなたざまに来(き)ければ、「何のするにかあらん」と思ふほどに、この方の汀近くなりて、蛇(くちなは)の頭をさし出でたりければ、「この蛇大きならんかし。外(と)ざまに上らんとするにや」と見立てりけるほどに、蛇、頭(かしら)をもたげて、つくづくとまもりけり。「いかに思ふにかあらん」と思ひて、汀一尺ばかりのきて、端(はた)近く立ちて見ければ、しばしばかり、まもりまもりて、頭を引き入れてけり。 さて、あなたの岸ざまに、水みなぎると見けるほどに、またこなたざまに、水波立ちて後、蛇の、尾を汀よりさし上げて、わが立てる方ざまにさし寄せければ、「この蛇、思ふやうのあるにこそ」とて、まかせて見立てりければ、なほさし寄せて、経頼が足を三返四返ばかりまとひけり。 「いかにせんずるにかあらん」と思ひて立てるほどに、まとひ得て、きしきしと引きければ、「川に引き入れんとするにこそありけれ」と、その折に知りて、踏み強(つよ)りて立てりければ、「いみじう強く引く」と思ふほどに、履きたる足駄の歯を踏み折りつ。引き倒されぬべきを、かまへて踏み直りて立てれば、強く引くともおろかなり。引き取られぬべく覚ゆるを、足を強く踏み立てければ、かたつらに五・六寸ばかり、足を踏み入れて立てりけり。「よく引くなり」と思ふほどに、縄などの切るるやうに、切るるままに、水中に血のさし湧き出づるやうに見えければ、「切れぬるなりけり」とて、足を引きければ、蛇、引きさして上りけり。 その時、足にまとひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、蛇の跡失せざりければ、「酒にてぞ洗ふ」と人の言ひければ、酒取りにやりて、洗ひなどして後に、従者ども呼びて、尾の方(かた)を引き上げさせたりければ、大きなりなどもおろかなり。切り口の大きさ、渡り一尺ばかりあるらんとぞ見えける。頭の方の切れを見せにやりければ、あなたの岸に、大きなる木の根のありけるに、頭の方を、あまた返りまとひて、尾をさしおこして、足をまとひて引くなりけり。力の劣りて、中より切れにけるなめり。わが身の切るるをも知らず引きけん、あさましきことなりかし。 その後、「蛇の力のほど、いくたりばかりの力にかありしと試みん」とて、大きなる縄を、蛇の巻きたる所に付けて、人十人ばかりして引かせけれども、「なほ足らず、なほ足らず」と言ひて、六十人ばかりかかりて引きける時にぞ、「かばかりぞ覚えし」と言ひける。それを思ふに、経頼が力は、さは百人ばかりが力を持たるにやと思ゆるなり。 ===== 翻刻 ===== むかし経頼といひける相撲の家のかたはらにふる川のありけるか ふかき淵なる所ありけるに夏その川のちかく木陰のありけれは かたひらはかりきて中ゆひて足太はきてまたふり杖と云物 つきて小童ひとりともにくしてとかくありきけるか涼まんとて その淵のかたはらの木かけに居にけり淵青くおそろしけにて底も みえす蘆薦なといふ物おいしけりけるをみて汀ちかくたてり けるにあなたの岸は六七段斗はのきたるらんとみゆるに水の みなきりてこなたさまにきけれはなにのするにかあらんとおもふ程に 此方の汀ちかく成て蛇の頭をさしいてたりけれは此くちなは大 きならんかしとさまにのほらんとするにやと見たてりける程に蛇 かしらをもたけてつくつくとまもりけりいかに思にかあらんと 思て汀一尺はかりのきてはたちかく立てみけれはしはしはかり まもりまもりて頭を引入てけりさてあなたの岸さまに水みな/下85オy423 きるとみける程に又こなたさまに水浪たちてのちくちなは の尾を汀よりさしあけてわかたてる方さまにさしよせけれは此 蛇おもふやうのあるにこそとてまかせてみたてりけれは猶さしよせて 経頼か足を三返四返はかりまとひけりいかにせんするにかあらん と思てたてる程にまとひえてきしきしと引けれは川に引入ん とするにこそありけれとそのおりにしりてふみつよりて立りけれは いみしうつよく引とおもふ程にはきたる足太のはをふみおりつ 引たをされぬへきをかまへて踏なをりて立れはつよく引とも おろかなりひきとられぬへくおほゆるを足をつよくふみたて けれはかたつらに五六寸斗足をふみ入て立りけりよく引 なりと思程に縄なとのきるるやうにきるるままに水中に血の さしわきいつるやうにみえけれはきれぬるなりけりとて足を引けれは くちなは引さしてのほりけりその時足にまとひたる尾をひきほと/下85ウy424 きて足を水にあらひけれとも蛇の跡うせさりけれは酒にて そあらふと人のいひけれは酒とりにやりてあらひなとして後に 従者ともよひて尾のかたを引あけさせたりけれは大きなりなと もおろかなり切口の大さわたり一尺はかりあるらんとそみえける頭の 方のきれをみせにやりけれはあなたの岸に大なる木の根 のありけるに頭のかたをあまたかへりまとひて尾をさしおこして 足をまとひて引なりけり力のをとりて中よりきれにけるなめり 我身のきるるをもしらす引けんあさましき事なりかし 其後くちなはの力のほといくたりはかりの力にかありしとこころ みんとて大なる縄を蛇の巻たる所に付て人十人斗して ひかせけれとも猶たらす猶たらすといひて六十人斗かかりて引ける 時にそかはかりそおほえしといひけるそれをおもふに経頼か 力はさは百人斗か力をもたるにやとおほゆるなり/下86オy425