宇治拾遺物語 ====== 第170話(巻13・第10話)慈覚大師、纐纈城に入り給ふ事 ====== **慈覚大師入纐纈城給事** **慈覚大師、纐纈城に入り給ふ事** ===== 校訂本文 ===== 昔、慈覚大師((円仁))、仏法を習ひ伝へんとて、唐土(もろこし)へ渡り給ひておはしけるほどに、会昌年中に、唐の武宗、仏法を滅ぼして、堂塔をこぼち、僧・尼を捕へて失ひ、あるいは還俗せしめ給ふ乱にあひ給へり。 大師も捕へんとしけるほどに、逃げて、ある堂の内へ入り給ひぬ。その使(つかひ)、堂へ入りて捜しける間、大師、すべき方なくて、仏の中に逃げ入りて、不動を念じ給ひけるほどに、使、求めけるに、新しき不動尊、仏の御中におはしけり。それを怪しがりて、抱(いだ)き下して見るに、大師、もとの姿になり給ひぬ。使、驚きて、帝にこのよしを奏す。帝、仰せられけるは、「他国の聖なり。すみやかに追ひ放つべし」と仰せければ、放ちつ。 大師、喜びて、他国へ逃げ給ふに、遥かなる山を隔てて人の家あり。築地(ついぢ)高くつきめぐらして、一つの門あり。そこに、人立てり。悦びをなして問ひ給ふに、「これは一人の長者の家なり。わ僧は何人ぞ」と問ふ。答へていはく、「日本国より、仏法習ひ伝へんとて渡れる僧なり。しかるに、かくあさましき乱(みだれ)にあひて、『しばし隠れてあらん』と思ふなり」と言ふに、「これは、おぼろげに人の来たらぬ所なり。しばらくここにおはして、世しづまりて後、出でて、仏法も習ひ給へ」と言へば、大師、喜びをなして内へ入りぬれば、門をさし固めて、奥の方に入るに、尻に立ちて行きて見れば、さまざまの屋(や)ども作り続けて、人多く騒がし。傍らなる所にすゑつ。 さて、「仏法習ひつべき所やある」と見歩(あり)き給ふに、仏法・僧侶等、すべて見えず。後ろの方、山に寄りて一宅あり。寄りて聞けば、人のうめく声のあまたす。怪しくて、垣(かき)の隙(ひま)より見給へば、人を縛りて、上より吊り下げて、下に壷どもをすゑて、血を垂らし入る。あさましくて、ゆゑを問へども、いらへもせず。 おほきに怪しくて、また異所(ことどころ)を聞けば、同じくによふ音す。のぞきて見れば、色あさましう青びれたる者どもの、痩せ損じたる、あまた臥せり。一人を招き寄せて、「これはいかなることぞ。かやうに耐へがたげには、いかであるぞ」と問へば、木の切れを持ちて、細き腕(かひな)をさし出でて、土に書くを見れば、「これは纐纈城(かうけちじやう)なり。これへ来たる人には、まづもの言はぬ薬を食はせて、次に肥ゆる薬を食はす。さて、その後、高き所に釣り下げて、所々をさし切りて、血をあやして、その血にて纐纈を染めて、売り侍るなり。これを知らずして、かかる目を見るなり。食ひ物の中に、胡麻のやうにて、黒ばみたる物あり。それは、もの言はぬ薬なり。さるもの参らせたらば、食ふ真似をして捨て給へ。さて、人のもの申さば、うめきにのみうめき給へ。さて後に、いかにもして逃ぐべき支度をして逃げ給へ。門は固くさして、おぼろげにて逃ぐべきやうなし」と、くはしく教へければ、ありつる居所に帰りゐ給ひぬ。 さるほどに、人、食ひ物持ちて来たり。教へつるやうに、この色のある物、中にあり。食ふやうにして、懐(ふところ)に入れて、後(のち)に捨てつ。人来たりて、ものを問へば、うめきてものものたまはず。「今はしおほせたり」と思ひて、肥ゆべき薬をさまざまにして食はすれば、同じく食ふ真似して食はず。人の立ち去りたる隙(ひま)に、艮(うしとら)の方に向かひて、「わが山((比叡山延暦寺))の三宝、助け給へ」と手をすりて祈請((底本「祈精」。))し給ふに、大きなる犬、一疋出で来て、大師の御袖を食ひて引く。「やうあり」と思えて、引く方に出で給ふに、思ひかけぬ水門のあるより引き出だしつ。外に出でぬれば、犬は失せぬ。 今はかうと思して、足の向きたる方へ走り給ふ。遥かに山を越えて人里あり。人会ひて、「これは、いづ方よりおはする人の、かくは走り給ふぞ」と問ひければ、「かかる所へ行きたりつるが、逃げてまかるなり」とのたまふに、「あはれ、あさましかりけることかな。それは纐纈城なり。かしこへ行きぬる人の帰る事なし。おぼろげの仏の御助けならでは、出づべきやうなし。あはれ、貴くおはしける人かな」とて、拝みて去りぬ。 それより、いよいよ逃げ来て、また都((長安))へ入りて、忍びておはするに、会昌六年に武宗崩じ給ひぬ。翌年、大中元年、宣宗位につき給ひて、仏法滅ぼすことやみぬれば、思ひのごとく仏法習ひ給ひて、十年といふに日本へ帰り給て、真言等広め給ひけりとなん。 ===== 翻刻 ===== むかし慈覚大師仏法をならひ伝へんとてもろこしへ渡給て おはしける程に会昌年中に唐武宗仏法をほろほして堂塔を こほち僧尼をとらへてうしなひ或は還俗せしめ給乱に合給 へり大師もとらへんとしける程に逃てある堂の内へ入給ぬ其 使堂へ入てさかしける間大師すへきかたなくて仏の中に逃入て不 動を念給ける程に使求けるにあたらしき不動尊仏の御中に/下76ウy406 おはしけりそれをあやしかりていたきおろしてみるに大師もとの すかたに成給ぬ使おとろきて御門にこのよしを奏す御門 仰られけるは他国の聖也すみやかに追はなつへしと仰けれははなち つ大師喜て他国へ逃給に遥なる山をへたてて人の家あり築 地高くつきめくらして一の門ありそこに人たてり悦をなしてとひ 給にこれはひとりの長者の家なりわ僧は何人そととふ答て云 日本国より仏法ならひつたへんとてわたれる僧なりしかるに かくあさましきみたれにあひてしはしかくれてあらんと思なりと いふにこれはおほろけに人のきたらぬ所也しはらくここにおはして 世しつまりて後出て仏法もならひ給へといへは大師喜をなして 内へ入ぬれは門をさしかためておくのかたに入に尻に立て行て みれは様々のやとも作つつけて人おほくさはかしかたはらなる所に すへつさて仏法ならひつへき所やあると見ありき給に仏法僧侶/下77オy407 等すへて見えすうしろのかた山によりて一宅ありよりてきけは人 のうめくこゑのあまたすあやしくてかきのひまよりみ給へは人をし はりて上よりつりさけて下に壷ともをすへて血をたらしいる あさましくてゆへをとへともいらへもせす大にあやしくて又こと所を きけは同くにようをとすのそきてみれは色あさましう青ひれ たる物とものやせそんしたるあまたふせり一人をまねきよせて これはいかなる事そかやうにたへかたけにはいかてあるそととへは木の きれを持てほそきかひなをさしいてて土に書をみれはこれは纐 纈城也これへきたる人にはまつ物いはぬ薬をくはせて次にこゆる 薬をくはすさて其後たかき所に釣さけて所々をさし切て血を あやしてその血にてかうけつを染て売侍なりこれをしらすして かかる目をみる也食物の中に胡麻のやうにてくろはみたる物あり それは物いはぬ薬なりさる物まいらせたらは食まねをしてすて給へ/下77ウy408 さて人の物申さはうめきにのみうめき給へさて後にいかにもして 逃へきしたくをして逃給へ門はかたくさしておほろけにて逃へき やうなしとくはしくをしへけれはありつる居所に帰居給ぬさる 程に人くひ物もちてきたりをしへつるやうに此色のある物中 にありくふやうにしてふところに入てのちにすてつ人きたりて 物をとへはうめきて物もの給はすいまはしおほせたりと思て 肥へき薬をさまさまにしてくはすれはおなしくくふまねして くはす人のたちさりたるひまに艮方にむかひて我山の三宝助 け給へと手をすりて祈精し給に大なる犬一疋いてきて大 師の御袖をくひてひくやうありとおほえて引かたにいて給に 思かけぬ水門のあるより引出しつ外に出ぬれは犬は失ぬ今 はかうとおほして足のむきたるかたへはしり給はるかに山を 越て人里あり人あひてこれはいつかたよりおはする人のかくは走/下78オy409 給そととひけれはかかる所へ行たりつるか逃てまかるなりとの給に あはれあさましかりける事かなそれは纐纈城なりかしこへ行ぬる人 の帰事なしおほろけの仏の御助ならては出へきやうなしあはれ貴く おはしける人かなとておかみてさりぬそれよりいよいよ逃きて又都へ 入て忍ておはするに会昌六年に武宗崩し給ぬ翌年大 中元年宣宗位につき給て「仏法ほろほす事やみぬれは思 のことく仏法ならひ給て」十年といふに日本へ帰給て真言 等ひろめ給けりとなん/下78ウy410