宇治拾遺物語 ====== 第164話(巻13・第4話)亀を買ひて放つ事 ====== **亀ヲ買テ放事** **亀を買ひて放つ事** ===== 校訂本文 ===== 昔、天竺の人、宝を買はんために、銭五十貫を子に持たせてやる。大きなる川の端(はた)を行くに、舟に乗りたる人あり。舟の方を見やれば、舟より亀、首をさし出だしたり。銭持ちたる人、立ち止まりて、「その亀をば、なにの料(れう)ぞ」と問へば、「殺して物にせんずる」と言ふ。「その亀買はん」と言へば、この舟の人いはく、「いみじき大切のことありて、まうけたる亀なれば、いみじき価(あたひ)なりとも、売るまじき」よしを言へば、なほあながちに、手をすりて、この五十貫の銭にて亀を買ひ取りて、放ちつ。 心に思ふやう、「親の宝買ひに、隣の国へやりつる銭を、亀にかへてやみぬれば、親はいかに腹立ち給はんずらむ」。さりとて、また親のもとへ行かであるべきにあらねば、親のもとへ帰り行くに、道に人会ひて言ふやう、「ここに亀売りつる人は、この下の渡りにて、舟うち返して死にぬ」となん語るを聞きて、親の家に帰り行きて、銭は亀にかへつるよし、語らんと思ふほどに、親の言ふやう、「何とて、この銭をば返しおこせたるぞ」と問へば、子の言ふ、「さることなし。その銭にては、しかじか、亀にかへて許しつれば、『そのよしを申さん』とて、参りつるなり」と言へば、親の言ふやう、「黒き衣着たる人、同じやうなるが五人、おのおの十貫づつ、持ちて着たりつる。これ、そなり」とて見せければ、この銭、いまだ濡れながらあり。 はや、買ひて放しつる亀の、その銭、川に落ち入るを見て、取り持ちて、親のもとに子の帰らぬ先にやりけるなり。 ===== 翻刻 ===== 昔天竺の人宝を買んために銭五十貫を子にもたせてやる 大きなる川のはたを行に舟にのりたる人あり舟のかたを見やれは 舟より亀くひをさし出したり銭持たる人立とまりてその 亀をはなにのれうそととへは殺して物にせんすると云その亀 かはんといへはこの舟の人いはくいみしき大切の事ありてまうけたる 亀なれはいみしきあたひなりともうるましきよしをいへはなを/下69ウy392 あなかちに手をすりて此五十貫の銭にて亀を買取ては なちつ心におもふやう親の宝買に隣の国へやりつる銭を 亀にかへてやみぬれはおやはいかに腹立給はんすらむさりとて又親 のもとへいかてあるへきにあらねは親のもとへ帰行に道に人あひていふ やうここに亀売つる人はこの下の渡にて舟うち返して死ぬ となんかたるをききて親の家に帰行て銭は亀にかへつるよし かたらんと思程におやのいふやうなにとてこの銭をは返しをこせ たるそととへは子のいふさる事なしその銭にてはしかしか亀に かへてゆるしつれはそのよしを申さんとてまいりつるなりといへは親の いふやうくろき衣きたる人おなしやうなるか五人おのおの十貫つつ 持てきたりつるこれそなりとてみせけれはこの銭いまたぬれなから ありはや買て放しつる亀のその銭川に落入をみてとり もちて親のもとに子の帰らぬさきにやりける也/下70オy393