宇治拾遺物語 ====== 第151話(巻12・第15話)河原院に、融公の霊住む事 ====== **河原院ニ融公霊住事** **河原院に、融公の霊住む事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、河原の院は融の左大臣((源融))の家なり。陸奥(みちのく)の塩竈(しほがま)の形(かた)を作りて、潮(うしほ)を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしきことを尽して住み給ひける。大臣(おとど)失せて後、宇多院((宇多天皇))には奉りたるなり。延喜の御門((醍醐天皇))、たびたび行幸ありけり。 まだ院の住ませ給ひける折に、夜中ばかりに、西対(にしのたい)の塗籠(ぬりごめ)を開けて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、日の装束うるはしくしたる人の、太刀はき、笏とりて、二間ばかりのきて、かしこまりて居たり。 「あれは誰(た)そ」と問はせ給へば、「ここの主(ぬし)に候ふ翁なり」と申す。「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す。「さは、何ぞ」と仰せらければ、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭(せ)く候ふなり。いかがつかまつるべからん」と申せば、「それは、いといと異様(ことやう)のことなり。故大臣の子孫の、われに取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。 その折の人々、「なほ、御門はかたことにおはしますものなり。ただの人は、その大臣に逢ひて、さやうにすくよかには言ひてんや」とぞ言ひける。 ===== 翻刻 ===== 今はむかし河原の院は融の左大臣の家也みちのくのしほかまの かたをつくりてうしほをくみよせてしほをやかせなと様々のおかし き事をつくして住給けるおととうせてのち宇多院にはたて まつりたる也延喜の御門たひたひ行幸ありけりまた院のすませ給 けるおりに夜中斗に西対の塗籠をあけてそよめきて人の まいるやうにおほされけれはみさせ給へはひの装束うるはしくし たる人の太刀はき笏とりて二間斗のきてかしこまりて居たり あれはたそととはせ給へはここのぬしに候翁也と申融のおとと かととはせ給へはしかに候と申すさはなんそと仰らけれは家なれは すみ候におはしますかかたしけなく所せく候なりいかか仕へからんと/下59オy371 申せはそれはいといとことやうの事也故おととの子孫の我にとらせ たれは住にこそあれわかをしとりてゐたらはこそあらめ礼も しらすいかにかくはうらむるそとたかやかに仰られけれはかいけつ やうに失ぬそのおりの人々なを御かとはかたことにおはします物 なりたたの人はそのおととに逢て左様にすくよかにはいひてんやとそいひける/下59ウy372