宇治拾遺物語 ====== 第137話(巻12・第1話)達磨、天竺の僧の行ひを見る事 ====== **達磨見天竺僧行事** **達磨、天竺の僧の行ひを見る事** ===== 校訂本文 ===== 昔、天竺に一寺あり。住僧もつとも多し。達磨和尚、この寺に入りて、僧どもの行をうかがひ見給ふに、ある房には念仏し、経を読み、さまざまに行ふ。ある房を見給ふに、八・九十ばかりなる老僧の、ただ二人居て、囲碁を打つ。仏もなく、経も見えず。ただ、囲碁を打つほかは他事なし。 達磨、くだんの房を出でて、他の僧に問ふに、答へていはく、「この老僧二人、若きより囲碁のほかはすることなし。すべて仏法の名をだに聞かず。よつて、寺僧、憎み卑しみて、交会(けうくわい)することなし。むなしく僧供を受け、外道のごとく思へり」と云々。 和尚これを聞きて、「さだめてやうあるらん」と思ひて、この僧がそばにゐて、囲碁打つありやうを見れば、一人は立てり、一人は居(を)りと見るに、忽然として失せぬ。怪しく思ふほどに、立てる僧は帰り居たりと見るほどに、また居たる僧、失せぬ。見れば、また出で来ぬ。 「さればこそ」と思ひて、「囲碁のほか他事なしと承るに、証果(しようくわ)の上人にこそおはしけれ。そのゆゑを承らん」とのたまふに、老僧、答へていはく、「年ごろ、このことよりほかは他事なし。ただし、黒勝つ時はわが煩悩勝ちぬと悲しみ、白勝つ時は菩提勝ちぬと悦ぶ。打つにしたがひて、煩悩の黒を失ひ、菩提の白の勝たんことを思ふ。この功徳によりて、たちまちに証果の身となり侍るなり」と云々。 和尚、房を出でて、他僧に語り給ひければ、年ごろ憎み卑しみつる人々、後悔して、みな貴みけりとなん。 ===== 翻刻 ===== 昔天竺に一寺あり住僧尤おほし達磨和尚此寺に入て 僧ともの行をうかかひ見給に或房には念仏し経を読み様 々におこなふ或房をみ給に八九十斗なる老僧の只二人ゐて 囲碁を打仏もなく経もみえすたた囲碁を打ほかは他事 なし達磨件房を出て他の僧に問に答云此老僧二人 若より囲碁のほかはする事なしすへて仏法の名をたにきかす 仍寺僧にくみいやしみて交会する事なしむなしく僧供を受 外道のことく思へりと云々和尚これを聞て定て様あるらんと思て 此僧か傍にゐて囲碁打あり様をみれは一人は立り一人は居りと 見に忽然として失ぬあやしく思程に立る僧は帰居たりと みる程に又居たる僧うせぬみれは又出きぬされはこそと思て囲碁 の外他事なしとうけ給るに証果の上人にこそおはしけれその ゆへを奉んとの給に老僧答云年来此事より外は他事なし/下51オy355 但黒勝ときは我煩悩勝ぬとかなしみ白勝ときは菩提勝ぬと 悦ふ打に随て煩悩の黒を失ひ菩提の白の勝ん事を思ふ此功 徳によりて忽に証果の身と成侍なりと云々和尚房を出て他僧に 語給ひけれは年来にくみいやしみつる人々後悔してみな貴みけりとなん/下51ウy356