宇治拾遺物語 ====== 第133話(巻11・第9話)空入水したる僧の事 ====== **空入水シタル僧事** **空入水したる僧の事** ===== 校訂本文 ===== これも今は昔、桂川に身投げんずる聖とて、まづ祇陀林寺(ぎだりんじ)にして、百日懺法行なひければ、近き遠き者ども、道もさりあへず、拝みに行きちがふ女房車などひまなし。 見れば、三十ばかりなる僧の、細(ほそ)やかなる目をも人に見合はせず、ねぶり目にて、時々阿弥陀仏を申す。その間(はざま)は脣ばかりはたらくは、念仏なんめりと見ゆ。また、時々、そそと息を放つやうにして、集ひたる者どもの顔を見渡せば、「その目に見合はせん」と、集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめき合ひたり。 さて、すでにその日のつとめては、堂へ入りて、先にさし入りたる僧ども、多く歩み続きたり。尻に雑役車(ざふやくぐるま)に、この僧は、紙の衣・袈裟など着て乗りたり。何と言ふにか、脣はたらく。人に目も見合はせずして、時々大息をぞ放つ。行く道に立ち並みたる見物の者ども、うち蒔きを霰(あられ)の降るやうになか道す。 聖、「いかに、かく目鼻に入る。耐へがたし。心ざしあらば、紙袋などに入れて、わが居たりつる所へ送れ」と時々言ふ。これを無下の者は、手をすりて拝む。少しものの心ある者は、「など、かうはこの聖は言ふぞ。今水に入りなんずるに、『きんだりへやれ。目鼻に入る、耐へがたし』など言ふこそ怪しけれ」など、ささめく者もあり。 さて、やりもてゆきて、七条の末にやり出だしければ、京よりはまさりて、「入水の聖拝まん」とて、河原の石よりも多く人集ひたり。川ばたへ車やり寄せて立てれば、聖、「ただ今は何時ぞ」と言ふ。供なる僧ども、「申(さる)のくだりになり候ひにたり」と言ふ。「往生の刻限には、まだしかんなるは。今すこし暮らせ」と言ふ。待ちかねて、遠くより来たる者は、帰りなどして、河原、人少なになりぬ。「これを見果てん」と思ひたる者は、なほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には刻限やは定むべき。心得ぬことかな」と言ふ。 とかく言ふほどに、この聖、褌(たふさぎ)にて、西に向ひて、川にざぶりと入るほどに、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入らでひしめくほどに、弟子の聖外したれば、さかさまに入りて、ごぶごぶとするを、男の、川へ下りくだりて、「よく見ん」とて立てるが、この聖の手を取りて引き上げたれば、左右の手して顔払ひて、くぐみたる水を吐き捨てて、この引き上げたる男に向ひて手をすりて、「広大の御恩かうぶり候ひぬ。この御恩は極楽にて申し候はむ」と言ひて、陸(くが)へ走り上(のぼ)るを、そこら集まりたる者ども、童部、河原の石を取りて、蒔きかくるやうに打つ。裸なる法師の、河原くだりに走るを、集ひたる者ども、受け取り受け取り打ちければ、頭打ち割られにけり。 この法師にやありけん、大和より瓜を人のもとへやりける文の上書きに、「前(さき)の入水の上人」と書きたりけるとか。 ===== 翻刻 ===== これも今は昔桂川に身なけんする聖とてまつ祇陀林寺にして 百日懺法おこなひけれはちかき遠きものとも道もさりあへす/下46ウy346 おかみにゆきちかふ女房車なとひまなしみれは卅余斗なる 僧のほそやかなる目をも人にみあはせすねふりめにて時々 阿弥陀仏を申そのはさまは脣はかりはたらくは念仏なんめり とみゆまた時々そそといきをはなつやうにしてつとひたる者とも のかほをみわたせはその目に見あはせんとつとひたるものともこ ちをしあちをしひしめきあひたりさてすてにその日のつとめ ては堂へ入てさきにさし入たる僧ともおほくあゆみつつきたり しりに雑役車にこの僧は紙の衣袈裟なときてのりたり なにといふにか脣はたらく人に目も見あはせすして時々大いきを そはなつ行道に立なみたる見物のものともうちまきを霰の ふるやうになか道す聖いかにかく目鼻にいるたへかたし心さしあらは 紙袋なとに入て我ゐたりつる所へをくれと時々いふこれを無下の 者は手をすりておかむすこし物の心ある者はなとかうは此聖は/下47オy347 いふそ今水に入なんするにきんたりへやれ目鼻に入たへ かたしなといふこそあやしけれなとささめく物もありさてやりも てゆきて七条の末にやりいたしけれは京よりはまさりて入水の 聖おかまんとて河原の石よりもおほく人つとひたり河はたへ 車やりよせてたてれは聖たたいまはなん時そといふともなる僧 とも申のくたりになり候にたりといふ往生の刻限にはまたし かんなるは今すこしくらせといふ待かねて遠くよりきたるものは 帰なとして河原人すくなに成ぬこれをみはてんと思たる者は なをたてりそれか中に僧のあるか往生には剋限やはさたむへ き心えぬ事かなといふとかくいふほとに此聖たうさきにて西に向ひ て川にさふりと入程に舟はたなる縄に足をかけてつふりとも いらてひしめく程に弟子の聖はつしたれはさかさまに入てこふこふ とするを男の川へおりくたりてよくみんとてたてるか此聖の手を/下47ウy348 とりて引あけたれは左右の手してかほはらひてくくみたる 水をはきすててこの引上たる男にむかひて手をすりて 広大の御恩蒙さふらひぬこの御恩は極楽にて申さふらはむ といひて陸へ走のほるをそこらあつまりたる者とも童部 河原の石を取てまきかくるやうに打はたかなる法師の河原 くたりに走をつとひたる者ともうけとりうけとり打けれは頭うちわられに けり此法師にやありけん大和より瓜を人のもとへやりける文の うはかきにさきの入水の上人とかきたりけるとか/下48オy349