宇治拾遺物語 ====== 第121話(巻10・第8話)蔵人頓死の事 ====== **蔵人頓死事** **蔵人頓死の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、円融院((円融天皇))の御時、内裏焼けにければ、後院(ごいん)になんおはしましける。 殿上の台盤に、人々あまた着きて、物食ひけるに、蔵人貞孝(さだたか)((藤原貞孝))、地ばん((不詳。[[:text:k_konjaku:k_konjaku31-29|『今昔物語集』31-29]]によると「大盤」。))に額をあてて、眠(ねぶ)り入りて、「いびきをするなめり」と思ふに、ややしばしになれば、「あやし」と思ふほどに、台盤に額を当てて、喉をくつくつとくつめくやうに鳴らせば、小野宮大臣殿((傍書「実資公」。藤原実資))、いまだ頭中将にておはしけるが、主殿司(とのもりづかさ)に、「その式部丞の寝ざまこそ心得ね。それ起こせ」とのたまひければ、主殿司、寄りて起こすに、すくみたるやうにて動かず。 あやしさに、かいさぐりて、「はや、死に給ひにたり。いみじきわざかな」と言ふを聞きて、ありとある殿上人・蔵人、ものも覚えず、もの恐しかりければ、やがて向きたる方ざまに、みな走り散る。 頭中将、「さりとて、あるべきこよならず。これ、諸司の下部(しもべ)召してかき出でよ」と行ひ給ふ。「いづかたの陣よりか出だすべき」と申せば、「東の陣より出だすべきなり」とのたまふを聞きて、内の人あるかぎり、東の陣に、「かく出で行くを見ん」とて、集ひ集りたる様に、たがへて西の陣より、殿上の畳ながら、かき出でて出でぬれば、人々も見ずなりぬ。 陣の口、かき出づるほどに、父の三位((藤原実光))来て、迎へ取りて去りぬ。「かしこく、人々に見合はずなりぬるものかな」となん人々言ひける。 さて、二十日ばかりありて、頭中将の夢に、ありしやうにて、いみじう泣きて、寄りてものを言ふ。聞けば、「いと嬉しく、おのれが死の恥を隠させ給ひたることは、世々に忘れ申すまじ。はかりごちて、西より出ださせ給はざりしかば、多くの人に面(おもて)をこそは見えて、死の恥にて候はましか」とて、泣く泣く手をすりて悦ぶとなん、夢に見えたりける。 ===== 翻刻 ===== 今は昔円融院の御時内裏焼にけれは後院になんおはし ましける殿上の台盤に人々あまた着て物くひけるに蔵人さ たたか地はんに額をあててねふり入ていひきをするなめりと 思ふにややしはしになれはあやしと思程に台盤にひたいをあてて のとをくつくつとくつめくやうにならせは小野宮(実資公)大臣殿いまた頭中 将にておはしけるか主殿司にその式部丞のねさまこそ心えね それおこせとの給ひけれはとのもりつかさよりておこすにす くみたるやうにてうこかすあやしさにかいさくりてはや死給にたり いみしきわさかなといふをききてありとある殿上人蔵人もの/下30ウy314 もおほえす物おそろしかりけれはやかてむきたるかたさまにみ な走ちる頭中将さりとてあるへき事ならすこれ諸司の下部 めしてかきいてよとおこなひ給いつかたの陣よりかいたすへき と申せは東の陣より出すへきなりとの給をききて内の 人あるかきり東の陣にかくいてゆくをみんとてつとひあつまり たる様にたかへて西の陣より殿上のたたみなからかきいてて出ぬれは 人々もみすなりぬ陣の口かきいつる程に父の三位きてむかへ とりてさりぬかしこく人々にみあはすなりぬる物かなとなん人々 いひけるさて廿日はかりありて頭中将の夢にありしやうにて いみしう泣てよりて物をいふきけはいとうれしくをのれか死 の恥をかくさせ給たる事は世々に忘申ましはかりこちて 西よりいたさせ給はさりしかはおほくの人に面をこそはみえて 死の恥にて候はましかとてなくなく手をすりて悦となん夢にみえたりける/下31オy315