宇治拾遺物語 ====== 第114話(巻10・第1話)伴大納言、応天門を焼く事 ====== **伴大納言焼応天門事** **伴大納言、応天門を焼く事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔((底本「清和」と傍注。))、水尾の御門((清和天皇))の御時に、応天門焼けぬ。人のつけたるになんありける。 それを伴善男といふ大納言、「これはまことの大臣((源信。底本「まこと」に「信」と傍注。))のしわざなり」とおほやけに申しければ、その大臣(おとど)を罪せんとせさせ給ひけるに、忠仁公((藤原良房))、世の政(まつりごと)は御弟の西三条の右大臣((藤原良相。底本「良相公」と傍注))にゆづりて、白河にこもりゐ給へる時にて、このことを聞き、驚き給ひて、御烏帽子・直衣ながら、移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひて、このこと申す。「人の讒言(ざんげん)にも侍らん。大事になさせ給ふこと、いと異様(ことやう)のことなり。かかることは、かへすがへすよくただして、まこと・そらごと、あらはして行なはせ給ふべきなり」と奏し給ひければ、「まことにも」と思し召して、たださせ給ふに、一定(いちぢやう)もなきことなれば、「許し給ふよし、仰せせよ」とある宣旨、承りてぞ、大臣は帰り給ひける。 左の大臣((源信))は、過ぐしたることもなきに、かかる横様(よこざま)の罪に当たるを思し歎きて、日の装束して、庭に荒薦(あらこも)を敷きて、出でて天道に訴(うた)へ申し給ひけるに、許し給ふ御使に、頭中将、馬に乗りながら馳せ詣でければ、「急ぎ罪せらるる使ぞ」と心して、一家(ひといえ)泣きののしるに、許し給ふよし、仰せかけて帰りぬれば、また、悦び泣きおびただしかりけり。許され給ひにけれど、「大やけにつかうまつりては、横様の罪出で来ぬべかりける」と言ひて、ことに、もとのやうに宮仕へもし給はざりけり。 このことは過ぎにし秋のころ、右兵衛の舎人なるもの、東の七条に住みけるが、つかさに参りて、夜更けて家に帰るとて、応天門の前を通りけるに、人の気配してささめく。廊のわきに隠れ立ちて見れば、柱よりかかぐり下(お)るる者あり。怪しくて、見れば、伴大納言なり。次に子なる人((伴中庸))下(お)る。また、次に雑色とよ清といふもの下る。 「何わざして下るるにあらん」と、つゆ心も得で見るに、この三人、下り果つるままに、走ることかぎりなし。南の朱雀門ざまに走りて往ぬれば、この舎人も、家ざまに行くほどに、二条堀川のほど行くに、「大内の方(かた)に火あり」とて、大路ののしる。見返りて見れば、内裏の方と見ゆ。走り返りたれば、応天門の上の半らばかり燃えたるなりけり。「このありつる人どもは、この火つくるとて上りたりけるなり」と心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、あへて口より外に出ださず。 その後、「左の大臣のし給へることとて、罪かうぶり給ふべし」と言ひののしる。「あはれ、したる人のあるものを。いみじきことかな」と思へど、言ひ出だすべきことならねば、「いとほし」と思ひありくに、「大臣、許されぬ」と聞けば、「罪なきことはつひにのがるるものなりけり」となん思ひける。 かくて、九月ばかりになりぬ。かかるほどに、伴大納言の出納(しゆつなふ)の家の幼なき子と、舎人が小童といさかひをして、出納ののしれば、出でて取りさへんとするに、この出納、同じく出でて見るに、寄りて引き放ちて、わが子をば家に入れて、この舎人が子の髪を取りて、うち伏せて死ぬばかり踏む。 舎人、思ふやう、「わが子も人の子も、ともに童部いさかひなり。ただ、さてはあらで、わが子をしも、かく情けなく踏むは、いと悪しきことなり」と腹立たしうて、「まうとは、いかで情けなく幼き者をかくはするぞ」と言へば、出納、言ふやう、「おれは何事言ふぞ。舎人だつるおればかりのおほやけ人を、わが打ちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君、大納言殿のおはしませば、いみじき過ちをしたりとも、何事の出で来(く)べきぞ。痴れ言いふかたゐかな」と言ふに、舎人、おほきに腹立ちて、「おれは何事言ふぞ。わが主(しう)の大納言をかうけに思ふか。おのが主は、わが口によりて、人にもおはするは知らぬか。わが口開けては、おのが主は人にてはありなんや」と言ひければ、出納は腹立ちさして、家に這ひ入りにけり。 このいさかひを見るとて、里隣の人、市をなして聞きければ、「いかに言ふことにかあらん」と思ひて、あるは妻子に語り、あるはつぎつぎ語り散らして、言ひ騒ぎければ、世に広ごりて、おほやけまで聞こし召して、舎人を召して問はれければ、始めはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬべく問はれければ、ありのくだりのことを申してけり。その後、大納言も問はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。 応天門を焼きて、信の大臣に負ほせて、かの大臣を罪せさせて、一の大納言なれば大臣にならんと構へけることの、返りてわが身罪せられけん、いかに悔しかりけむ。 ===== 翻刻 ===== 今はむかし水尾(清和)の御門の御時に応天門やけぬ人のつけたるに なんありけるそれを伴善男といふ大納言これはまこと(信)の大臣の しわさなりと大やけに申けれはそのおととをつみせんとせさ せ給けるに忠仁公世の政は御おとうとの西三条の右大臣(良相公)にゆ つりて白川にこもりゐ給へる時にてこの事をききおとろき給 て御烏帽子直衣なから移の馬に乗給てのりなから北の陣 まておはして御前にまいり給てこの事申人の讒言にも 侍らん大事になさせ給事いとことやうの事也かかる事は 返々よくたたしてまことそらことあらはしておこなはせ給へき なりとそうし給けれはまことにもとおほしめしてたたさせ 給に一定もなき事なれはゆるし給よし仰せよとある宣旨/下21オy295 うけ給てそおととは帰給ける左のおととはすくしたる事も なきにかかるよこさまの罪にあたるをおほしなけきて日の装 束して庭にあらこもをしきていてて天道にうたへ申給けるにゆる し給ふ御使に頭中将馬にのりなからはせまうてけれはいそき 罪せらるる使そと心してひと家なきののしるにゆるし給よし おほせかけて帰ぬれは又悦なきおひたたしかりけりゆるされ給にけれ と大やけにつかうまつりてはよこさまの罪いてきぬへかりけるといひて ことにもとのやうに宮つかへもし給はさりけり此事は過にし秋の比 右兵衛の舎人なるもの東の七条に住けるかつかさにまいりて夜 更て家に帰とて応天門の前をとほりけるに人のけはひしてささ めく廊の腋にかくれたちてみれは柱よりかかくりおるるものあり あやしくてみれは伴大納言なり次に子なる人おる又次に雑色 とよ清といふものおるなにわさしておるるにあらんとつゆ心もえて/下21ウy296 見るにこの三人おりはつるままにはしる事かきりなし南の朱 雀門さまに走ていぬれはこの舎人も家さまに行程に二条 堀川のほと行に大内のかたに火ありとて大路ののしるみかへりて みれは内裏の方とみゆ走かへりたれは応天門の上のなからはかり もえたるなりけりこのありつる人ともはこの火つくるとてのほり たりけるなりと心えてあれとも人のきはめたる大事なれはあへて口 より外にいたさすそののち左のおととのし給へる事とて罪かうふり 給へしといひののしるあはれしたる人のある物をいみしき事かなと おもへといひいたすへき事ならねはいとおしと思ひありくにおととゆる されぬときけは罪なき事はつゐにのかるる物なりけりとなん 思けるかくて九月斗になりぬかかる程に伴大納言の出納の家の おさなき子と舎人か小童といさかひをして出納ののしれはいてて とりさへんとするにこの出納おなしくいててみるによりてひき/下22オy297 はなちて我子をは家に入てこの舎人か子の髪を取てうち ふせてしぬはかりふむ舎人おもふやう我子も人の子もともに童部 いさかひなりたたさてはあらて我子をしもかくなさけなくふむは いとあしき事なりと腹たたしうてまうとはいかてなさけなく おさなきものをかくはするそといへは出納いふやうおれは何事い ふそとねりたつるおれはかりのおほやけ人をわかうちたらんに何 事のあるへきそわか君大納言殿のおはしませはいみしきあや まちをしたりともなに事のいてくへきそしれ事いふかたいかなと いふに舎人おほきに腹立ておれはなにこといふそわかしうの大納言 をかうけにおもふかおのかしうは我口によりて人にもおはする はしらぬかわか口あけてはおのかしうは人にてはありなんやといひけれ は出納は腹たちさして家にはい入にけりこのいさかひをみるとて 里隣の人市をなしてききけれはいかにいふ事にかあらんと思て/下22ウy298 あるは妻子にかたりあるはつきつきかたりちらしていひさはきけれ は世にひろこりて大やけまてきこしめして舎人をめしてと はれけれははしめはあらかひけれともわれも罪かうふりぬへくと はれけれはありのくたりのことを申てけりそののち大納言もとは れなとして事あらはれての後なん流されける応天門を焼 てまことの大臣におほせてかのおととをつみせさせて一の大納言 なれは大臣にならんとかまへける事のかへりてわか身罪せられ けんいかにくやしかりけむ/下23オy299