宇治拾遺物語 ====== 第85話(巻6・第3話)留志長者の事 ====== **留志長者事** **留志長者の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、天竺に留志長者((盧至長者))とて、世にたのしき長者ありけり。おほかた、蔵もいくらともなく持ち、たのしきが、心の口惜しくて、妻子にも、まして従者にも、もの食はせ、着(き)することなし。 おのれ、物の欲しければ、人にも見せず、隠して食ふほどに、物の飽かず多く欲しかりければ、妻に言ふやう、「飯・酒・果物(くだもの)など、おほらかにして賜べ。われに憑きて、物惜しまする慳貪の神祀らん」と言へば、「物惜しむ心失なはんとする、良きこと」と喜びて、色々に調(てう)じて、おほらかに取らせければ、受け取りて、「人も見ざらん所に行きて、よく食はん」と思ひて、外居(ほかゐ)に入れ、瓶子に酒入れなどして、持ちて出でぬ。 「この木のもとには烏(からす)あり」「かしこには雀あり」などえりて、人離れたる山の中の木の陰に、鳥獣もなき所にて、一人食ひ居たる心の楽しさ、ものにも似ずして、誦(ずん)ずるやう、「今曠野中、食飯酒大安楽、猶過毘沙門天、勝天帝釈」。この心は、「今日、人なき所に一人居て、物を食ひ、酒を飲む。安楽(あんらく)なること毘沙門、帝釈((帝釈天))にもまさりたり」と言ひけるを、帝釈、きと御覧じてけり。 「憎し」と思しけるにや、留志長者の形に化し給ひて、かの家におはしまして、「われ、山にて、物惜しむ神を祀りたる験(しるし)にや、その神離れて、物の惜しからねば、かくするぞ」とて、蔵どもを開けさせて、妻子をはじめて、従者ども、それならぬよその人ども、修行者、乞食に至るまで、宝物どもを取り出だして、配り取らせければ、みなみな悦びて、分け取りけるほどにぞ、まことの長者は帰りたる。 倉ども、みな開けて、かく宝ども、みな人の取り合ひたる、あさましく、悲しさいはんかたなし。「いかに、かくはするぞ」とののしれども、われとただ同じ形の人出で来て、かくすれば、不思議なることかぎりなし。「あれは変化の物ぞ。われこそ、そよ」と言へども、聞き入るる人もなし。 御門にうれへ申せば、「母に問へ」と仰せあれば、母に問ふに、「人に物くるるこそ、わが子にて候はめ」と申せば、するかたなし。「腰のほどに、ははくひといふものの跡ぞ候(さぶら)ひし。それを印(しるし)に御覧ぜよ」と言ふに、開けて見れば、帝釈、それを学ばせ給はざらんやは、二人ながら、同じやうに物の跡あれば、力なくて仏の御もとに、二人ながら参りたれば、その時、帝釈、もとの姿になりて、御前におはしませば、「論じ申すべきかたなし」と思ふほどに、仏の御力にて、やがて須陀洹果を証(せう)したれば、悪しき心離れたれば、物惜しむ心も失せぬ。 かやうに、帝釈は人を導かせ給ふこと、はかりなし。そぞろに長者の財を失なはんとは、何しに思し召さん。慳貪の業によりて、地獄に落つべきを、あはれませ給ふ御心ざしによりて、かく構(かま)へさせ給ひけるこそ、めでたけれ。 ===== 翻刻 ===== いまは昔天竺に留志長者とて世にたのしき長者ありけり大方 蔵もいくらともなくもちたのしきか心のくちおしくて妻子にも まして従者にも物くはせきする事なしおのれ物のほしけれは 人にもみせすかくしてくふ程に物のあかすおほくほしかりけれは 妻にいふやう飯酒くた物なとおほらかにしてたへ我につきて物 おしまする慳貪の神まつらんといへは物おしむ心うしなはんとする/88オy179 よき事と喜て色々にてうしておほらかにとらせけれはうけとり て人も見さらん所に行てよくくはんと思てほかいにいれ瓶子に 酒入なとしてもちて出ぬ此木のもとにはからすありかしこには 雀ありなとえりて人はなれたる山の中の木の陰に鳥獣も なき所にてひとり食ゐたる心のたのしさ物にもにすしてすんするやう 今曠野中食飯酒大安楽猶過毘沙門天勝天帝尺此心はけふ 人なき所に一人ゐて物をくひさけをのむあんらくなる事毘沙 門帝尺にもまさりたりといひけるを帝尺きと御らんしてけりにく しとおほしけるにや留志長者の形に化し給て彼家におはしまして 我山にて物おしむ神をまつりたるしるしにやその神はなれて 物のおしからねはかくするそとて蔵ともをあけさせて妻子を初て 従者ともそれならぬよその人共修行者乞食にいたるまて宝物 ともを取出してくはりとらせけれはみなみな悦て分とりける程にそ/88ウy180 まことの長者は帰たる倉共みなあけてかく宝ともみな人の とりあひたるあさましくかなしさいはんかたなしいかにかくはするそ とののしれとも我とたたおなしかたちの人出きてかくすれはふし きなる事かきりなしあれは変化の物そ我こそそよといへとも ききいるる人もなし御門にうれへ申せは母にとへとおほせあれは母に とふに人に物くるるこそ我子にて候はめと申せはするかたなし腰 の程にはわくひといふもののあとそさふらひしそれをしるしに御らん せよといふにあけてみれは帝尺それをまなはせ給はさらんやは二人 なからおなしやうに物のあとあれは力なくて仏の御もとに二人なから まいりたれはその時帝尺もとのすかたに成て御前におはしませは 論し申へきかたなしとおもふ程に仏の御力にてやかて須陀洹果を せうしたれはあしき心はなれたれは物おしむ心もうせぬかやうに帝 尺は人をみちひかせ給事はかりなしそそろに長者の財をうし/89オy181 なはんとはなにしにおほしめさん慳貪の業によりて地獄に落へき をあはれませ給御心さしによりてかくかまへさせ給けるこそ目出けれ/89ウy182