宇治拾遺物語 ====== 第72話(巻5・第2話)以長物忌の事 ====== **以長物忌事** **以長物忌の事** ===== 校訂本文 ===== これも今は昔、大膳亮大夫橘以長といふ蔵人の五位ありけり。宇治左大臣殿((藤原頼長))より召しありけるに、「今明日は、かたき物忌みをつかまるつこと候ふ」と申したりければ、「こはいかに、世にある者の、物忌みといふことやはある。たしかに参れ」と、召し厳しかりければ、恐れながら参りにけり。 さるほどに、十日ばかりありて、左大臣殿に、世に知らぬかたき御物忌み出で来にけり。御門のはざまに、かいだてなどして、仁王講行なはるる僧も、高陽院のかたの土戸より、童子なども入れずして、僧ばかりぞ参りける。 「御物忌あり」とこの以長聞きて、急ぎ参りて、土戸より参らんとするに、舎人二人居て、「『人な入れそ』と候ふ」とて、立ち向ひたりければ、「やうれ、おれらよ。召されて参るぞ」と言ひければ、これらもさすがに職事にて、常に見れば、力及ばで、入れつ。 参りて、蔵人所に居て、何ともなく声高に、もの言ひ居たりけるを、左府、聞かせ給ひて「このもの言ふは誰(たれ)ぞ」と問はせ給ひければ、盛兼、申すやう、「以長に候ふ」と申しければ、「いかに、かばかりかたき物忌みには、夜部(よべ)より参りこもりたるかと尋ねよ」と仰せければ、行きて、仰せの旨を言ふに、蔵人所は御前より近かりけるに、「くわ、くわ」と大声して、憚らず申すやう、「過候ひぬるころ、わたくしに物忌つかまつりて候ひしに、召され候ひき。物忌のよしを申し候ひしを、物忌みといふことやはある。たしかに参るべきよし、仰せ候ひしかば、参り候ひにき。されば、物忌といふことは候はぬと知りて候ふなり」と申しければ、聞かせ給ひて、うちうなづきて、ものも仰せられでやみにけりとぞ。 ===== 翻刻 ===== これも今はむかし大膳亮大夫橘以長といふ蔵人の五位あり けり宇治左大臣殿より召ありけるに今明日はかたき物忌 を仕事候と申たりけれはこはいかに世にある物の物忌と いふことやはあるたしかにまいれとめしきひしかりけれは恐な からまいりにけりさる程に十日斗ありて左大臣殿によに しらぬかたきか(御歟)物忌いてきにけり御かとのはさまにかい たてなとして仁王講おこなはるる僧も高陽院のかたの 土戸より童子なともいれすして僧斗そまいりける御物忌 ありとこの以長ききていそきまいりて土戸よりまいらんと するに舎人二人ゐて人ないれそと候とて立むかひたりけれは やうれおれらよめされてまいるそといひけれはこれらもさすか に職事にてつねにみれは力及はていれつまいりて蔵人所に/75オy153 居てなにともなく声たかに物いひゐたりけるを左府きかせ 給てこの物いふはたれそと問はせ給けれは盛兼申やう以長に 候と申けれはいかにか斗かたき物忌には夜部よりまいり こもりたるかと尋よと仰けれは行て仰の旨をいふに蔵人 所は御前より近かりけるにくわくわと大声して憚からす申 やう過候ぬる比わたくしに物忌仕て候しにめされ候き物忌の よしを申候しを物忌といふ事やはあるたしかにまいるへき由 仰候しかはまいり候にきされは物忌といふ事は候はぬとしり て候也と申けれはきかせ給てうちうなつきて物もおほせ られてやみにけりとそ/75ウy154