宇治拾遺物語 ====== 第55話(巻4・第3話)薬師寺の別当の事 ====== **薬師寺別当事** **薬師寺の別当の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、薬師寺の別当僧都(([[text:k_konjaku:k_konjaku15-4|『今昔物語集』15ー4]]によると済源))といふ人ありけり。別当はしけれども、ことに寺の物も使はで、極楽に生まれんことをなん願ひける。 年老ひ、病(やまひ)して、死ぬるきざみになりて、念仏して消え入らんとす。無下にかぎりと見ゆるほどに、良ろしうなりて、弟子を呼びて、言ふやう、「見るやうに、念仏は他念なく申して死ぬれば、『極楽の迎へいますらん』と待たるるに、極楽の迎へは見えずして、火の車を寄す。『こは何ぞ。かくは思はず。何の罪によりて、地獄の迎へは来たるぞ』と言ひつれば、車に付きたる鬼どもの言ふやう、『この寺の物を、一年(ひととせ)、五斗借りて、いまだ返さねば、その罪によりて、この迎へは得たるなり』と言ひつれば、われ言ひつるは、『さばかりの罪にては、地獄に落つべきやうなし。その物を返してん』と言へば、火車を寄せて待つなり。されば、とくとく一石誦経(ずきやう)にせよ」と言ひければ、弟子ども、手まどひをして、言ふままに、誦経にしつ。その鐘の声のする折、火車、帰りぬ。 さて、とばかりありて、「火の車帰りて、極楽の迎へ、いまなんおはする」とて、手をすりて、悦びつつ終りにけり。 その坊は、薬師寺の大門の北の脇にある坊なり。いまだ、その形(かた)失せずしてあり。 さばかりほどの物使ひたるにだに、火車迎へに来たる。まして、寺の物を心のままに使ひたる諸寺の別当の、地獄の迎へこそ、思ひやらるれ。 ===== 翻刻 ===== いまはむかし薬師寺の別当僧都といふ人ありけり別当は/62オy127 しけれともことに寺の物もつかはて極楽に生れん事をなん ねかひける年老やまひして死ぬるきさみになりて念仏 してきえいらんとす無下にかきりとみゆるほとによろしう なりて弟子をよひていふやうみるやうに念仏は他念なく 申てしぬれは極楽のむかへいますらんとまたるるに極楽の むかへはみえすして火の車をよすこはなんそかくはおもはす なにの罪によりて地獄の迎はきたるそといひつれは車につき たる鬼とものいふやう此寺の物を一とせ五斗かりていまた 返さねは其罪によりてこのむかへはえたる也といひつれは我 いひつるはさはかりの罪にてはちこくに落へきやうなしその 物を返してんといへは火車をよせて待なりされはとくとく 一石すきやうにせよといひけれは弟子とも手まとひをして いふままに誦経にしつその鐘のこゑのするおり火車帰ぬ/62ウy128 さてとはかりありて火の車帰て極楽のむかへ今なんおはす るとて手をすりて悦つつおはりにけりその坊は薬師 寺の大門の北の脇にある坊なりいまたそのかたうせすして ありさはかり程の物つかひたるにたに火車むかへにきたる まして寺の物を心のままにつかひたる諸寺の別当のちこく のむかへこそおもひやらるれ/63オy129