宇治拾遺物語 ====== 第50話(巻3・第18話)平貞文本院侍従の事 ====== **平貞文本院侍従事** **平貞文本院侍従の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、兵衛佐平貞文((平定文とも。))をば平中(へいちう)といふ。色好みにて、宮仕へ人はさらなり、人の女(むすめ)など、忍びて見ぬはなかりけり。思ひかけて、文やるほどの人の、なびかぬはなかりけるに、本院侍従といふは、村上の((村上天皇))御母后((藤原穏子))の女房なり。世の色好みにてありけるに、文やるに、にくからず返りごとはしながら、逢ふことはなかりけり。 「しばしこそあらめ、つひには、さりとも」と思ひて、もののあはれなる夕ぐれの空、また、月の明かき夜など、艶(えん)に、人の目とどめつべきほどをはからひつつ、訪れければ、女も見知りて、情けはかはしながら、心をばゆるさず。つれなくて、はしたなからぬほどにいらへつつ、人居まじり、苦しかるまじき所にては、物言ひなどはしながら、めでたく逃れつつ、心もゆるさぬを、男はさも知らで、かくのみ過ぐる。 心もとなくて、常よりもしげく訪れて、「参らん」と言ひおこせたりけるに、例のはしたなからず、いらへたれば、四月のつごもりごろに、雨、おどろおどろしく降りて、もの恐しげなるに、「かかる折に行きたらばこそ、『あはれ』とも思はめ」と思ひて出でぬ。 道すがら、耐へがたき雨を、「これに行(い)きたらんに、逢はで返すこと、よも」と頼もしく思えて、局(つぼね)に行(ゆ)きたれば、人出で来て、「上になれば、案内(あんない)申さん」とて、端の方に入れ往ぬ。 見れば、物の後ろに、火、ほのかに灯して、宿直物(とのゐもの)とおぼしき衣、伏籠(ふせご)にかけて、薫き物しめたる匂ひ、なべてならず。いと心にくくて、身にしみて、「いみじ」と思ふに、人帰りて、「ただいま下りさせ給ふ」と言ふ。嬉しさかぎりなし。すなはち、下りたり。「かかる雨には、いかに」など言へば、「これにさはらんは、無下に浅きことにこそ」など言ひかはして、近く寄りて、髪をさぐれば、氷をのしかけたらんやうに冷やかにて、当りめでたきことかぎりなし。 なにやかやと、えもいはぬことども言ひかはして、疑ひなく思ふに、「あはれ、遣戸を開けながら、忘れて来にける。つとめて『誰か、開けながらは、出でにけるぞ』など、わづらはしきことになりなんず。立てて帰らん。ほどもあるまじ」と言へば、「さること」と思ひて、かばかりうちとけにたれば、心安くて、衣(きぬ)をとどめて参らせぬ。 まことに遣戸立つる音して、「こなたへ来らん」と待つほどに、音もせで、奥ざまへ入りぬ。それに、心もとなく、あさましく、うつし心も失せ果てて、這ひも入りぬべけれど、すべき方もなくて、やりつる悔しさを思へど、かひなければ、なくなく暁近く出でぬ。 家に行きて、思ひあかして、すかし置きつる心憂さ、書きつづけてやりたれど、「何しにか、すかさん。帰らんとせしに、召ししかば、後にも」など言ひて過しつ。 「おほかた、ま近きことは、あるまじきなめり。今は、さは、この人の悪(わろ)く踈(うと)ましからんことを見て、思ひ踈まばや。かくのみ心づくしに、思はでありなん」と思ひて、随身を呼びて、「その人のひすましの皮籠(かはご)持て行かん、奪(ば)ひ取りて、われに見せよ」と言ひければ、日ごろ、添ひてうかがひて、からうじて逃げけるを、追ひて、奪ひ取りて、主(しう)に取らせつ。 平中、悦びて、隠れに持て行きて、見れば、香なる薄物の、三重重ねなるに包みたり。香ばしきこと、たぐひなし。引き解きて開くるに、香ばしさ、喩へんかたなし。みれば沈(ぢん)・丁子を濃く煎じて入れたり。また、薫物を多くまろがしつつ、あまた入れたり。さるままに、かうばしき。推し量るべし。 見るに、いとあさまし。「ゆゆしげにおきたらば、『それに見飽きて、心もや慰む』とこそ思ひつれ。こは、いかなることぞ。かく心ある人やはある。ただ人とも思えぬありさまかな」と、いとど死ぬばかり思へど、かひなし。「わが見んとしもやは思ふべきに」と、かかる心ばせを見てのちは、いよいよ呆(ほ)け呆けしく思ひけれど、つひに逢はでやみけり。 「わが身ながらも、かれに、よに恥ぢがましく、妬く思えし」と、平中、みそかに人と忍びて、語りけるとぞ。 ===== 翻刻 ===== 今は昔兵衛佐平貞文をはへいちうといふ色このみにて宮つ かへ人はさらなり人のむすめなとしのひてみぬはなかりけり思ひ/57ウy118 かけて文やる程の人のなひかぬはなかりけるに本院侍従と云は 村上の御母后の女房也世の色このみにてありけるに文やるに にくからす返ことはしなからあふ事はなかりけりしはしこそあらめ つゐにはさりともと思てもののあはれなる夕くれの空又月の あかき夜なとえんに人の目ととめつへき程をはからひつつをと つれけれは女もみしりてなさけはかはしなから心をはゆるさすつれ なくてはしたなからぬほとにいらへつつ人ゐましりくるしかる ましき所にては物いひなとはしなからめてたくのかれつつ心もゆる さぬを男はさもしらてかくのみすくる心もとなくてつねよりも しけくをとつれてまいらんといひをこせたりけるにれいのはしたなから すいらへたれは四月のつこもり比に雨おとろおとろしく降て物おそろ しけなるにかかるおりにゆきたらはこそあはれとも思はめとおもひて いてぬ道すからたへかたき雨をこれにいきたらんにあはて/58オy119 返す事よもとたのもしく思てつほねにゆきたれは人いてき てうへになれはあんない申さんとてはしのかたにいれていぬみれは 物のうしろに火ほのかにともしてとのゐ物とおほしき衣ふせこ にかけてたき物しめたるにほひなへてならすいと心にくくて身に しみていみしとおもふに人帰てたたいまおりさせ給といふうれしさ かきりなしすなはちおりたりかかる雨にはいかになといへはこれに さはらんはむけにあさき事にこそなといひかはしてちかくよりて かみをさくれはこほりをのしかけたらんやうにひややかにてあたりめ てたき事かきりなしなにやかやとえもいはぬ事ともいひか はしてうたかひなくおもふにあはれやり戸をあけなからわすれて きにけるつとめてたれかあけなからは出にけるそなとわつらはし き事になりなんすたてて帰らんほともあるましといへはさる ことと思てかはかりうちとけにたれは心やすくてきぬをととめ/58ウy120 てまいらせぬまことにやりとたつるをとしてこなたへくらんと待 ほとにをともせておくさまへ入りぬそれに心もとなくあさましく うつし心もうせはててはひもいりぬへけれとすへき方もなくて やりつるくやしさを思へとかひなけれはなくなくあか月ちかくいてぬ 家に行きておもひあかしてすかしをきつる心うさかきつつけてや りたれと何しにかすかさん帰らんとせしにめししかは後にも なといひてすこしつ大かたまちかき事はあるましきなめり 今はさはこの人のわろくうとましからんことをみておもひうとま はやかくのみ心つくしに思はてありなんと思てすいしんをよひて そのひとのひすましのかはこもていかんはいとりて我にみせよといひ けれは日ころそひてうかかひてからうしてにけけるををひてはい とりてしうにとらせつへいちう悦てかくれにもてゆきてみれはかう なるうす物の三重かさねなるにつつみたりかうはしき事たくひ/59オy121 なしひきときてあくるにかうはしさたとへんかたなしみれは ちん丁子をこくせんしていれたりまたたきものをおほくまろ かしつつあまたいれたりさるままにかうはしきをしはかるへし みるにいとあさましゆゆしけにをきたらはそれにみあきて こころもやなくさむとこそおもひつれこはいかなる事そかく 心ある人やはあるたた人ともおほえぬありさまかなといととし ぬ斗おもへとかいなしわかみんとしもやは思へきにとかかる こころはせをみてのちはいよいよほけほけしくおもひけれと つゐにあはてやみけり我か身なからもかれによにはちかましく ねたくおほえしとへいちうみそかに人としのひてかた りけるとそ/59ウ122