宇治拾遺物語 ====== 第29話(巻2・第11話)明衡、殃に逢はんと欲する事 ====== **明衡欲逢殃事** **明衡、殃に逢はんと欲する事** ===== 校訂本文 ===== 昔、博士にて、大学頭明衡((藤原明衡))といふ人ありき。 若かりける時、さるべき所に宮仕ひける女房を語らひて、その所に入り臥さんこと、便なかりければ、その傍らにありける下種の家を借りて、「女房、語らひ出だして、臥さん」と言ひければ、男主(あるじ)はなくて、妻ばかりありけるが、「いとやすきこと」とて、おのれが臥す所よりほかに、臥すべき所の無かりければ、わが臥し所を去りて、女房の局の畳を取寄せて寝にけり。 家主(いへあるじ)の男、「わが妻の、みそか男する」と聞きて、「そのみそか男、今宵なん、逢はんとかまふる」と告ぐる人ありければ、「来んを、かまへて殺さん」と思ひて、妻には、「遠くものへ行きて、今、四・五日、帰るまじき」と言ひて、そら行きをしてうかがふ。 夜にてぞありける。家主の男、夜更けて、立ち聞くに、男女の忍びてもの言ふ気色しけり。「さればよ、隠し男、来にけり」と思ひて、みそかに入りて、うかがひ見るに、わが寝所に、男、女と臥したり。暗ければ、たしかに気色見えず。男のいびきする方(かた)へ、やはら登りて、刀を逆手に抜き持ちて、腹の上と思しきほどをさぐりて、「突かん」と思ひて、腕(かひな)を持ち上げて、突き立てんとするほどに、月影の板間より漏りたりけるに、指貫のくくり、長やかにて、ふと見えければ、それにきと思ふやう、「わが妻のもとには、かやうに指貫着たる人はよもこじものを。もし、人違(たが)へしたらんは、いとほしく、不便なるべき事」を思ひて、手を引き返して、着たる衣(きぬ)などをさぐりけるほどに、女房、ふとおどろきて、「ここに人の音するは、誰(た)そ」と忍びやかに言ふ気配、わが妻にはあらざりければ、「さればよ」と思ひて、居退(ゐの)きけるほどに、この臥したる男もおどろきて、「誰そ、誰そ」と問ふ声を聞きて、わが妻の、下なる所に臥して、「わが男の、気色のあやしかりつるは。それがみそかに来て、人違へなどするにや」と思えけるほどに、おどろき騒ぎて、「あれは誰そ。盗人か」など、ののしる声の、わが妻にてありければ、「こと人々の、臥したるにこそ」と思ひて、走り出でて、妻がもとに行きて、髪を取りて、引き伏せて、「いかなることぞ」と問ひければ、妻、「さればよ」と思ひて、「かしこう、いみじきあやまちすらんに。かしこには、上臈の、『今夜ばかり』とて、借らせ給ひつれば、貸し奉りて、われはここにこそ臥したれ。希有のわざする男かな」とののしる時にぞ、明衡も驚きて、「いかなることぞ」と問ひければ、その時に、男、出で来て言ふやう、「おのれは、甲斐殿(([[:text:k_konjaku:k_konjaku26-4|『今昔物語集』26ー4]]によると、藤原公業。))の雑色、なにがしと申す者にて候ふ。一家の君、おはしけるを知り奉らで、ほとほとあやまちをなむ、つかまつるべく候ひつるに、希有に御指貫のくくりを見付けて、しかじか思ひ給へてなん、腕(かひな)を引きしじめて候ひつる」と言ひて、いみじうわびける。 甲斐殿といふ人は、この明衡の妹の男なりけり。思ひがけぬ指貫のくくりの徳に、希有の命をこそ生きたりければ、かかれば、「人は忍ぶ」と言ひながら、あやしの所には立ち寄るまじきなり。 ===== 翻刻 ===== むかし博士にて大学頭明衡といふ人ありき若かりける時さるへき 所に宮仕ける女房をかたらひてその所に入ふさん事便なかりけれは/36オy75 そのかたはらにありける下種の家を借て女房かたらひ出してふさ んといひけれは男あるしはなくて妻斗ありけるかいとやすき事とて をのれかふす所よりほかに臥へき所のなかりけれは我ふし所をさりて 女房の局の畳をとりよせてねにけり家あるしの男我妻のみ そかおとこするとききてそのみそか男こよひなん逢んとかまふ るとつくる人ありけれはこんをかまへて殺さんと思て妻には遠く 物へ行て今四五日帰ましきといひてそらいきをしてうかかふ夜にてそありけ る家あるしの男夜ふけて立きくに男女の忍て物いふけしきしけり されはよかくし男きにけりと思てみそかに入てうかかひみるに我寝所に 男女と臥したりくらけれはたしかにけしきみえす男のいひきするかたへ やはらのほりて刀をさかてにぬきもちて腹の上とおほしきほとをさ くりてつかんと思てかいなを持あけてつきたてんとする程に月影 の板間よりもりたりけるに指貫のくくりなかやかにてふとみえけ/36ウy76 れはそれにきと思やう我妻のもとにはかやうに指貫きたる人はよもこし 物をもし人たかへしたらんはいとおしく不便なるへき事を思て手をひ き返してきたるきぬなとをさくりける程に女房ふとおとろきてここ に人のをとするはたそと忍やかにいふけはひ我妻にはあらさりけれは されはよと思てゐのきける程にこの臥たる男もおとろきてたそたそ ととふこゑをききて我妻の下なる所にふして我男のけしきの あやしかりつるはそれかみそかにきて人たかへなとするにやとおほえける 程におとろきさはきてあれはたそ盗人かなとののしる声の我妻 にてありけれはこと人人のふしたるにこそと思て走出て妻かもとに いきて髪をとりて引ふせていかなる事そと問けれは妻されは よと思てかしこういみしきあやまちすらんにかしこには上臈の今夜 斗とてからせ給ひつれはかしたてまつりて我はここにこそふしたれ希有 のわさする男かなとののしる時にそ明衡もおとろきていかなる事そ/37オy77 と問けれは其時に男出きていふやうをのれは甲斐殿の雑色 なにかしと申者にて候一家の君おはしけるをしりたてまつらて ほとほとあやまちをなむつかまつるへく候つるにけうに御指貫のくく りを見付てしかしか思給てなんかいなを引ししめて候つると云て いみしう侘ける甲斐殿と云人はこの明衡の妹の男なりけり思か けぬさしぬきのくくりの徳にけうの命をこそいきたりけれはかかれ は人は忍といひなからあやしの所には立ちよるましきなり/37ウy78