宇治拾遺物語 ====== 第20話(巻2・第2話)静観僧正、祈雨法験の事 ====== **静観僧正祈雨法験事** **静観僧正、祈雨法験の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、延喜の御時((醍醐天皇の御代の意。))、旱魃(かんばつ)したりけり。 六十人の貴僧を召して、大般若経読ましめ給ひけるに、僧ども黒煙(くろけぶり)を立てて、「験(しるし)あらはさん」と祈りけれども、いたくのみ晴れまさりて、日強く照りければ、御門((醍醐天皇))をはじめて、大臣・公卿・百姓人民、このことよりほかの歎きなかりけれ。 蔵人頭を召し寄せて、静観僧正((増命))に仰せ下さるるやう、「ことさら思し召さるるやうあり。かくのごとく、方々に御祈れども、させる験なし。座を立ちて、別に壁のもとに立ちて祈れ。思し召すやうあれば、とりわき仰せ付くるなり」と仰せ下しければ、静観僧正、その時は律師にて、上に僧都・僧正・上臈どもおはしけれども、面目かぎりなくて、南殿の御階(みはし)より下りて、屏(へい)のもとに北向きに立ちて、香炉とりくびりて、額に香煙を当てて、祈誓し給ふこと、見るひとさへ苦しく思ひけり。 暑き日の、しばしもえさし出でぬに、涙を流し、黒煙を立てて、祈請し給ひければ、香炉の煙、空へ上りて、扇ばかりの黒雲になる。上達部は南殿に並び居、殿上人は宜陽殿に立ちて見るに、上達部の御前は美福門よりのぞく。 かくのごとく見るほどに、その雲、むらなく大空にひきふたぎて、竜神、震動し、電光、大千世界に満ち、車軸のごとくなる雨降りて、天下、たちまちにうるほひ、五穀豊饒にして、万木、果を結ぶ。見聞の人、帰服せずといふことなし。 さて、御門・大臣・公卿等、随喜して僧都となし給へり。不思議のことなれば、末の世の物語、とかく記せるなり。 ===== 翻刻 ===== 今は昔延喜の御時旱魃したりけり六十人の貴僧を召て大般若 経よましめ給けるに僧とも黒烟を立てしるしあらはさんと祈けれ共 いたくのみ晴まさりて日つよくてりけれは御門を初て大臣公卿百 姓人民この事より外の歎なかりけれ蔵人頭を召よせて静観 僧正に仰下さるるやうことさら思食さるるやうあり如是方々に御 祈ともさせるしるしなし座をたちて別に壁の本にたちていのれ おほしめすやうあれはとりわき仰付るなりと仰せ下けれは静観 僧正其時は律師にて上に僧都僧正上臈ともおはしけれとも面目かき/25オy53 りなくて南殿の御階よりくたりてへいの本に北向に立て香炉とり くひりて額に香炉をあてて祈誓し給こと見るひとさへくるしく思けり 熱日のしはしもえさしいてぬに涙をなかし黒煙をたててきせいし給 けれは香呂の烟空へあかりて扇はかりの黒雲になる上達部は南殿 にならひ居殿上人は宜陽殿に立てみるに上達部の御前は美福門よりの そくかくのことく見る程に其雲むらなく大空にひきふたきて竜 神震動し電光大千世界にみち車軸のことくなる雨ふりて天下忽 にうるほひ五穀豊饒にして万木果をむすふ見聞の人帰服せすと いふ事なしさて御門大臣公卿等随喜して僧都となし給へり不思 議の事なれはすゑの世の物語とかくしるせるなり/25ウy54