大和物語 ====== 第141段 よしいへといひける宰相の兄弟大和の掾といひてありけり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== よしいへ((橘良殖か。))といひける宰相の兄弟(はらから)、大和の掾(ぞう)といひてありけり。それがもとの妻(め)のもとに、筑紫(つくし)より女を率てきて据(す)ゑたりけり。もとの妻も、心いとよく。今の妻もにくき心もなく、いとよく語らひて居たりける。 かくて、この男は、ここかしこ、人の国がちにのみ歩(あり)きければ、二人のみなん居たりける。 この筑紫の妻、忍びて男したりけり。それを、人のとかく言ひければ、詠みたりける。   夜半(よは)に出でて月だに見ずは逢ふことを知らず顔にも言はましものを となん。 かかるわざをすれど、もとの妻、いと心よき人なれば、男にも言はでのみなんありわたれども、ほかの便りありて、「かく男すなり」と聞きて、この男、思ひたりけれど、心にも入れで、たださるものにて置きたりけり。 さて、この男、「女、異人(ことひと)にもの言ふ」と聞きて、「その人とわれと、いづれをか思ふ」と問ひたりければ、女、   花薄(はなすすき)君が方(かた)にぞなびくめる思はぬ山の風は吹けども となん言ひける。 よばふ男もありけり。「世の中、心憂し。なほ男せじ」など言ひけるものなん、この男をやうやう思ひやつきけん、この男の返り事などして、このもとの妻のもとに文をなん引き結びておこせたりける。見れば、かく書けり。   身を憂しと思ふ心の懲りねばや人をあはれと思ひそむらん となん、懲(こ)りずまに詠みたりける。 かくて、心の隔てもなくて、あはれなれば、「いとあはれ」と思ふほどに、男は心かはりにければ、ありしごともあらねば、かの筑紫に親・兄弟(はらから)などもありければ、行きけるを、男も心かはりにければ、留めでなんやりける。もとの妻なん、もろともにありならひにければ、かくて行くことを、「いと悲し」と思ひける。 山崎にもろともになん行きて、船に乗せなどす。男も来たりけり。この後妻(うはなり)、一日一夜(ひとひひとよ)、よろづのことを言ひ語らひて、つとめて船に乗りぬ。今は、男、もとの妻と、「帰りなん」とて、車に乗りぬ。これもかれも、「いと悲し」と思ふほどに、船に乗り給ひぬる人の文を持て来たる。かくのみなん、ありける。   二人来し道とも見えぬ波の上を思ひかけでも帰すめるかな と言へりければ、男ももとの妻も、いたうあはれがり泣きけり。 漕ぎ出でていぬれば、返事もえせず。車は船の行くを見て、え行かず。船に乗りたる人は、「車を見る」とて、面(おもて)をさし出でて、漕ぎ行くは遠くなるままに、顔はいと小さくなるまで、見おこせければ、いと悲しかりけり。 ===== 翻刻 ===== よしいへといひける宰相のはらから やまとのそうといひてありけりそれか もとのめのもとにつくしより女を ゐてきてすへたりけりもとのめ もこころいとよくいまのめもにく きこころもなくいとよくかたらひて ゐたりけるかくてこのおとこは ここかしこひとのくにかちにのみあり きけれはふたりのみなんゐたりけ るこのちくしのめしのひておとこし たりけりそれをひとのとかくいひ/d26l けれはよみたりける よはにいてて月たにみつはあふこ とをしらすかほにもいはましものを となんかかるわさをすれともとのめ いとこころよきひとなれはおとこにも いはてのみなんありわたれともほかの たよりありてかくおとこすなり とききてこのおとこおもひたりけ れとこころにもいれてたたさるもの にておきたりけりさてこのお とこ女ことひとにものいふとききて/d27r そのひととわれといつれをかおもふと とひたりけれは女 はなすすき君かかたにそなひく めるおもはぬやまのかせはふけとも となんいひけるよはふおとこもあり けりよのなかこころうしなをおとこ せしなといひけるものなんこのおと こをやうやうおもひやつきけんこのお とこのかへりことなとしてこのもと のめのもとにふみをなんひきむすひ てをこせたりけるみれはかくかけり/d27l 身をうしとおもふこころのこりね はやひとをあはれとおもひそむらん となんこりすまによみたりける かくてこころのへたてもなくてあはれなれはいとあはれ とおもふほとにおとこはこころかはり にけれはありしこともあらねはかの ちくしにおやはらからなともあり けれはいきけるをおとこもこころ かはりにけれはととめてなんやりけ るもとのめなんもろともにありなら ひにけれはかくていくことをいとかな/d28r しとおもひけるやまさきにもろと もになんいきてふねにのせなとす おとこもきたりけりこのうはな りひとひひと夜よろつのことをいひか たらひてつとめてふねにのりぬいま はおとこもとのめとかへりなんとてくる まにのりぬこれもかれもいとかなしと おもふほとにふねにのりたまひぬる ひとのふみをもてきたるかくのみなん ありける ふたりこしみちともみえぬなみ/d28l のうへをおもひかけてもかえすめるかな といへりけれはおとこももとのめも いたうあはれかりなきけりこき いてていぬれは返事もえせすくるま はふねのゆくをみてえいかすふねに のりたるひとはくるまをみるとて おもてをさしいててこきゆくはとほく なるままにかほはいとちいさくなる まてみをこせけれはいとかなしかりけり/d29r