大和物語 ====== 第120段 太政大臣は大臣になり給ひて年ごろおはするに枇杷の大臣は・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 太政大臣(おほきおとど)((藤原忠平))は、大臣になり給ひて年ごろおはするに、枇杷の大臣(おとど)((藤原仲平))は、えなり給はで、ありわたり給ひけるを、つひに大臣(だいじん)になり給ひにけるを、御よろこびに、太政大臣、梅を折りて、かざし給ひて、   遅く疾(と)くつひに咲きける梅の花誰(た)が植ゑ置きし種(たね)にはあるらん とありけり。 その日のことどもを、歌など書きて、斎宮((宇多天皇皇女柔子内親王))に奉り給ふとて、三条の右大臣の女御((藤原能子))、やがてこれに書き付け給ひける。   いかでかく年切(としぎり)もせぬ種もかな荒れゆく庭のかげと頼まん とありける。その御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり。 かくて、願ひ給ひけるかひありて、左の大臣(おとど)((藤原実頼))、中納言わたり住みわたり給ひければ、種(たね)みな広ごり給ひて、かげ多くなり給ひにけり。 さりけるとき、斎宮より、   花ざかり春は見に来ん年切もせずといふ種は生ひぬとか聞く ===== 翻刻 ===== 貞信公(延喜十四年八月廿三日右大臣左大将如元卅五/延長二年正月廿二同左大臣八年九月摂政 おほきおととは大臣になりたまひて 年来おはするに 枇杷のおととは仲平(承平三年二月十三日右大臣/左大将如元同七年正月左大臣五十九) えなりたまはてありわたりたまひ けるをつひにたいしんになり給に けるを御よろこひにおほきおとと むめををりてかさしたまひて をそくとくつひにさきけるむめ のはなたかうへおきしたねにはあるらん とありけりその日のことともをうた/d14l なとかきてさい宮にたてまつり給と て三条の右大臣の女御やかてこれにかきつ け給ける(承平二年八月四同左大臣左大将定房薨/六十女御仁善子後為清慎公室) いかてかくとしきりもせぬたねもかな あれゆくにはのかけとたのまん とありけるその御かへしさい宮よりあ りけりわすれにけり(柔子母同延喜天徳三年薨) かくてねかひたまひけるかひありて左 のおとと中納言わたりすみわたり給けれはた ねみなひろこり給てかけおほく なり給にけりさりけるとき/d15r さい宮より はなさかり春はみにこんとしき りもせすといふたねはをひぬとかきく/d15l