打聞集 ====== 第22話 麽等聖、仏法を弘め給ふ事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔((底本二字程度破損。通例に従い「昔」を補入。なお[[:text:k_konjaku:k_konjaku6-2|『今昔物語集』6-2]]には「今昔、震旦の後漢の明帝の時に」とあるので、「昔、後漢の明帝の御時」か。))、漢の明帝の御時、帝王、夢に金人来たれるを見ゆ。夢覚めて後((「夢覚めて後」は底本「夢覚□□」。二字程度破損。[[:text:k_konjaku:k_konjaku6-2|『今昔物語集』6-2]]により補う。))、大臣に問ひ給ふ。大臣、申していはく、「他国よりやんごとなき((「やんごとなき」は底本「止□无き」。一時破損。文脈により補う。))人来たる相なり」と申す。 その後(のち)、帝王、御心にかけて待ち給ふ間、天竺より、僧来たれり。名は麽等・竹法蘭((正しくは、迦葉摩騰と竺法蘭。なお、[[:text:k_konjaku:k_konjaku6-2|『今昔物語集』6-2]]では「摩騰迦・竺法蘭」。))といふ。仏舎利((「仏舎利」は底本「□舎利」。一時破損。文脈により補う。))・経・法文((「法文」は底本「法門」))多くして、帝王に奉る。王、これを待ちて、悦び給ふことかぎりなし。 このことを承け引かぬ大臣・公卿多し。何□野干の唐人といふ者は、わが立つ所の道を、帝王よりはじめて、衆人のやんごとなきものにし給ひぬるに、呉国より、形も変りて、心得ぬ経どもを具して来たるを、王(みかど)崇めむとせしめ給へば、安からぬことに思ひて、世の謗りと((「世の謗りと」は底本「□□旁と」。中島悦次『打聞集』(白帝社・昭和36年9月)のテキストに従い補入。))愁へあへる也((「也」は底本破損。文脈により補う。))。 されど、王(みかど)、この麽等をいみしき者に思して、別寺を俄(にはか)に立てらる。名をば白縁寺と付けらる。王の、かく寺を立てられ、このことを崇(あが)めらるるを、この唐人はいみじくねたきことに思ひて、王に申すやう、「呉国より、あやしき経論の、よしなしごとどもを書きつづけたる文・仙人の屍(かばね)((仏舎利を指す。))などを持ちて渡り来たるを、かく崇めらるる、いとあやしきことなり。なにばかりのことかあらむ。われらが道は、過ぎし方・今・来べき道を占ひ知り、人の末にあるべき方、形のさまを見て相し、あらたなる神の如くなる道なり。それを捨てられぬべく見れば、ただ、この経論に対て、力競べをして、勝方を貴がらせ給ふべきなり」と申すを、王、聞こし召して、御胸ふたがりて、思し召す。「この唐人立つる道は、そらごとを知り、死ぬことよく考へあなぐる。この異国より来たる法は、善悪知らねば、いまだ不審(いぶか)し。もし、術競べをせむに、劣らば、いみじく愁かるべし」。 しかれば、「競べよ」ともえ仰せられず、まづ、麽等法師を召して、「この国に崇めらるる術人は、嫉(ねた)がりて、かかることをなむ申す。いかなるべきことぞ」と仰せらる。麽等、申していはく、「わが持つ所の法は、昔(いにしへ)より、術競べをして、人に崇めらるるものなり。しからば、この度たび、ただ相(あは)せて御覧ずべし。いと嬉し事なり」と申せば、帝王も、「いみじう嬉し」と思し召して、すみやかに術競べすべきよしの宣旨下しぬ。 殿前御橋にて、この力競べはあるべし。国挙(こぞ)りて、人見ることかぎりなし。東の方には、二色の幄(あく)を長く立て、その下に、やんごとなき唐人ども、二千人ばかり並み居たり。おのおの、かみさび、年老いたる者どもあり。才覚、おのおの磨き立てて、往古に恥ぢず。ありとある人、大臣・公卿、百官を率て、みな唐人の方に寄れり。文書につきて、考へへ出だすことどもの、まことに顕(あら)はに三世のことどもを知るやうにもてなす。この麽等が方には、ただ大臣一人方寄れり。さては、帝王、御心寄せ((「御心寄せ」は底本「御心ヨソ」。[[:text:k_konjaku:k_konjaku6-2|『今昔物語集』6-2]]に「但し、天皇を心寄せに思ひ給ひけり」とあるのにより訂正。))思し召しける。 玉の箱どもに、立つる所の文どもを入れて、荘(かざ)り台に据ゑ並みたり。麽等方には瑠璃へ((「へ」は底本、戸かんむりに勺。読みは[[uchigiki18]]参照。))に仏舎利を入れ奉れり。荘る箱どもに、渡し奉る経どもを入れたり。わづかに二百巻なり。それも二色の幄(あく)を打ちて、麽等一人、大臣一人居る。唐の方に申すやう、「麽等が方より、わが方の法文に火付くべし」。寄りて、弟子一人来て、火を打ちて付く。また、唐人方より、麽等が方の法文((「法文」は底本「法門」))に火付く。共に燃えあひて、炎盛りなり。黒烟((底本「烟」なし。文脈により補入))、空に登る。 麽等方の仏舎利、光を放ちて空に上る。経論も同じく、仏舎利に具して空に登る。麽等、香炉を取りて、かへすがへす念じ居る。 唐人の法文((「法文」は底本「法門」))、一時に火になりぬ。その時、唐人ども、或は舌食ひ切り死ぬる者あり、或は目より血出で、或は鼻より血流れ、或は気立ちて死に、或は座を立ちて走り逃れ、或は麽等方に引きて渡りて弟子となる。 その時に、帝王、泣啼して座を立ち礼し給ふ。 それより後、仏法繁昌広まりて、随の煬帝((「煬帝」は底本「陽タイ」))の御時に、この国((日本))に渡れるなり。この国の帝王は、欽明天皇の御世なり。 ===== 翻刻 ===== □□漢明帝ノ御時帝王夢金人来見夢覚□□大臣問給大臣申云他国ヨリ止 □无キ人来相也申其後帝王御心懸待給間天竺ヨリ僧来レリ名ハ麽等竹法蘭ト云 □舎利経法門多シテ帝王ニ奉ル王此ヲ待テ悦給事限无シ此事ヲ承引ヌ大臣公卿 多何□野干唐人云物ハ我立所ノ道ヲ帝王ヨリ初メテ衆人ノ止事无物ニシ給ヌルニ呉国ヨリ 形モ代テ得心ヌ経共ヲ具シテ来ヲ王トアカメムト令メ給ヘハ不安事ニ思テ□□旁ト愁 アヘル□サレト王ト此麽等ヲイミシキ物ニ思シテ別寺ヲ俄ニ立テラル名ヲハ白縁寺ト付ラル 王ノカク寺ヲ立ラレ此事ヲアカメラルルヲ此唐人ハイミシク嫉事ニ思テ王ニ申様呉国ヨリ アヤシキ経論ノ由ナシ事共ヲ書ツツケタル文仙人ノカハネナトヲ以テ渡来ヲカクアカメラルル イトアヤシキ事也ナニ許ノ事カアラム我等道ハ過カタ今来ヘキ道ヲウラナヒ知人ノ末有 ヘキ方形ノサマヲ見テ相シ新ナル神ノ如クナル道也其ヲステラレヌヘク見レハ只此経論ニ 対力ラクラヘヲシテ勝方ヲ貴カラセ給ヘキ也ト申ヲ王ト聞食シテ御胸フタカリテ 思食□此唐人立道ハ空(ソラ)事知死事能カムカヘアナクル此異国ヨリ来ル法ハ善悪不知 ネハイマタ不審シモシ術クラヘヲセムニ劣ハイミシク愁カルヘシ然レハ競ヨトモエ仰ラレス先麽等 法師ヲ召テ此国ニアカメラルル術人ハ嫉カリテカカル事ヲナム申イカナルヘキ事ソト仰ラル 麽等申云我持所ノ法ハ昔(イニシヘ)ヨリ術競ヘヲシテ人ニアカメラルル物也然ハ此ノ度只相(アハセ)テ 御覧スヘシイトウレシ事也ト申セハ帝王モイミシウウレシト思食テ速ニ術競スヘキ由ノ 宣旨下ヌ殿前御橋ニテ此力競ハ有ヘシ国挙リテ人見事限无シ東ノ方ニハ 二色ノアクヲ長ク立テ其下(シタ)ニ止事无キ唐人共二千人許ナミ居タリ各ノ/d33 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/33 カミサヒ年老タル物共有才覚各ミカキタテテ往古ニハチス有ト々人大臣公卿率百官ヲ 皆唐人ノ方ニヨレリ文書ニ付テカムカヘ出事共ノ実ニ顕アラハニ三世ノ事共ヲシル様ニ 以テナス此麽等カ方ニハ只大臣一人方ヨレリサテハ帝王御心ヨソ思食ケル玉箱共ニ立ル 所ノ文共ヲ入テ庄リ台ニスヘナミタリ麽等方ニハ瑠璃〓ニ仏舎利ヲ入奉レリ庄ル箱 共ニ渡奉ル経共ヲ入タリワツカニ二百巻也其モ二色ノアクヲ打テ麽等一人大臣一人 居唐ノ方ニ申様麽等カ方ヨリ我方ノ法文ニ火付ヘシヨリテ弟子一人来テ火ヲ打テ 付又唐人方ヨリ麽等カ方法門火付共モエアヒテホノホサカリナリ黒空ニ登麽等方ノ 仏舎利放光ヲ空ニ上経論モ同ク仏舎利ニ具シテ空登麽等香呂ヲ取テ返々 念居唐人法門一時火成ヌ其時唐人共或ハ舌クヒ切死物アリ或目ヨリ血出或ハ 鼻ヨリ血流或ハ気立テ死或ハ坐ヲ立テ走逃或ハ麽等方ニ引テ渡テ弟子成 尓時ニ帝王泣啼立座ヲ礼給フ其ヨリ後仏法繁昌弘リテ随陽タイノ御時ニ此国ニ 渡レル也此国ノ帝王ハ欽明天皇御世ナリ/d34 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/34