打聞集 ====== 第12話 羅睺羅の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、仏((釈迦))、失せ給はむずるほどに、羅睺羅、「仏の失せ給はむ((「失せ給はむ」は底本「失ハム」。誤写とみて補う。))、見るに、さらに耐ふべきにあらず。されば、他世界に行きて、かかる悲しびも見じ」とて、十方恒河沙の世界を過ぎて、仏の御国にに参りてあるほどに、仏のたまはく、「なんぢ、父の釈迦牟尼仏失せ給ひなむとす。いかで、その終の臨にはあはで、ここには来たるぞ」とのたまへば、羅睺羅の申さく、「悲しびの堪(た)へがたきに、『さあらむことを見給へず』とて、この世界には詣で来たるなり」と申せば、仏ののたまはく、「いとあやしきことなり。父仏失せ給はむずる時になりて、なんぢを待ち給ふ。すみやかに参りて、最後の臨に見奉れ」とのたまへば、羅睺羅、泣く泣く帰り参り給ふ。 釈迦仏、「羅睺羅は来(き)ぬや、来ぬや」と御弟子に問ふに、「羅睺羅、参り給ひぬ」と見て、「今は限りにならせ給ひて、待ち奉らせ給ふ」とて、「御傍(かたは)らに参り給へ」と言へば((「と言へば」は底本「ト□ハ」。一字破損。文脈により補う))、参り給へり((「参り給へり」は底本「参ヘリ」。給の脱字とみて補入))。仏羅睺羅の臂(かひな)を取り給ひて、「羅睺羅はわが子なり。十方の仏、愍(あは)れにし給へ」と契り給ひて、絶え入りぬ((「絶え入りぬ」は底本「絶入□ヌ」。一字破損。文脈により補う))。 これぞ、仏だに子を思ひ給ふ道は、他人には異(こと)なり。まして、われら衆生は、子を思ふに迷はむこと、理(ことわり)なり。 ===== 翻刻 ===== 昔仏失給ハムスル程ニ羅睺羅仏ノ失ハム見ニ更ニタフヘキニ非スサレハ他世界ニイキテカカル 悲モ見シトテ十方恒河沙ノ世界ヲ過テ仏御国ニニ参テ有程ニ仏ノタマハク汝 父ノ尺迦牟尼仏失給ナムトスイカテソノ終ノ臨ニハ相ハテココニハキタルソトノ給ヘハ羅睺羅ノ 申ク悲ノ難堪ニサアラム事ヲ不見給トテ此世界ニハマウテキタルナリト申セハ仏ノノ 給クイトアヤシキ事也父仏失給ハムスル時ニ成テ汝ヲ待給フ速ニ参テ最後ノ 臨ニ見奉レトノ給ヘハ羅睺羅泣々帰参給尺迦仏羅睺羅ハキヌヤキヌヤト御弟子ニ 問フニ羅睺羅参給ヌト見テ今ハ限ニ成セ給テ待タテマツラセ給トテ御カタハラニ参給ト □ハ参ヘリ仏羅睺羅ノ臂(カヒナヲ)取給テ羅睺羅ハ我子也十方ノ仏愍(アハレニシ)給ト契給テ絶入 □ヌ此ソ仏タニ子ヲ思給フ道ハ他人ニハ異也倍テ我ラ衆生ハ子思ニ迷ム事理(コトワリ)也/d24 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192812/24