徒然草 ====== 第104段 荒れたる宿の人目なきに女のはばかることあるころにて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 荒れたる宿の人目なきに、女のはばかることあるころにて、つれづれとこもり居たるを、ある人、「とぶらひ給はん」とて、夕月夜(ゆふづくよ)のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはし たるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女(げすをんな)の出でて、「いづくよりぞ」といふに、やがて案内(あない)せさせて、入り給ひぬ。心細げなるありさま、「いかで過ぐすらん」と、いと心苦し。 あやしき板敷に、しばし立ち給へるを、もてしづめたるけはひの若やかなるして、「こなた」といふ人あれば、たて開け所狭(ところせ)げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。 内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、にはかにしもあらぬ匂ひ、いとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る。御車は門の下に。御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞ、安き寝(い)は寝(ぬ)べかめる」と、うちささめくも、忍びたれど、ほどなければ、ほの聞こゆ。 さて、このほどのことども、細やかに聞こえ給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来し方行末かけて、まめやかなる御物語に、この度(たび)は、鳥も花やかなる声にうちしきれば、「明けはなるるにや」と聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙(ひま)白くなれば、忘れがたきことなど言ひて、立ち出で給ふに、梢(こずゑ)も庭もめづらしく青みわたりたる、卯月ばかりの曙(あけぼの)、艶(えん)にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るるまで、今も見送り給ふとぞ。 ===== 翻刻 ===== 荒たるやどの人めなきに。女のはばかる事 あるころにて。つれづれと籠居たるを。 或人とふらひたまはんとて。夕づく夜 の覚束なきほどに。しのびて尋おはし たるに。犬のことことしくとかむれば。げす 女のいでていづくよりぞといふに。やがてあない/w1-74l http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0001/he10_00934_0001_p0074.jpg せさせて入給ぬ。心ぼそげなる有様。いかで 過すらんと。いと心ぐるし。あやしき 板敷にしばしたち給へるを。もてしづめ たるけはひのわかやかなるして。こなたと いふ人あれば。たてあけ所せげなる遣 戸よりぞ入給ぬる。内のさまはいたくす さまじからず。心にくく火はあなたにほの かなれど。もののきらなど見えて。俄に しもあらぬにほひ。いとなつかしうすみ なしたり門よくさしてよ。雨もぞふる/w1-75r 御車は門のしたに。御供の人は。そこそこに といへは。こよひぞやすきいはぬべかめると。 打ささめくもしのびたれど。ほどなけ れば。ほのきこゆ。さて。此ほどの事ども こまやかにきこえ給に。夜ふかき鳥も なきぬ。こしかた行末かけてまめやかな る御物かたりに。此たびは鳥も花やかなる 声にうちしきれば。明はなるるにや と聞給へど。夜ふかくいそぐべき所の さまにもあらねば。少したゆみ給へるに。/w1-75l http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0001/he10_00934_0001_p0075.jpg 隙しろくなれば。わすれがたき事 などいひて。たちいで給ふに。梢も庭も めづらしく青みわたりたる。卯月 ばかりのあけぼの。艶におかしかりしを おぼし出て。桂の木のおほきなるが。かく るるまでいまも見送り給ふとぞ/w1-76r http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he10/he10_00934/he10_00934_0001/he10_00934_0001_p0076.jpg