とはずがたり ====== 巻3 2 人召す音の聞こゆれば何事にかと思ひて参りたるに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== [[towazu3-01|<>]] 人召す音((主語は後深草院))の聞こゆれば、「何事にか」と思ひて参りたるに、御前には人もなし。御湯殿の上に一人立たせ給ひたるほどなり。「このほどは人々の里住みにて、あま りに寂しき心地するに、常に局(つぼね)がちなるは、いづれの方ざまに引く心にか」など仰せらるるも、「例の」とむつかしきに、有明の月、御参りのよし奏す。 やがて局の御所へ入れ参らせらるれば((「らるれば」は底本「か(ら歟)るれは」。「か」に「ら歟」と傍書。))、いかがはせむ。つれなく御前に候ふに、そのころ今御所と申すは、遊義門院((後深草院皇女姈子内親王))いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御悩みわづらはしくて、ほど経給ひける御祈りに、如法愛染王行なはるべきこと申させ給ふ。また、そのほかも、わが御祈りに北斗の法、それは鳴滝(なるたき)にや承る。 いつよりも、のどやかなる御物語のほどさぶらふも、「御心の中いかが」と恐しきに、「宮の御方の御心地わづらはしく見えさせ給ふ」よし申されたれば、きと入らせ給ふとて、「還御待ち奉り給へ」と申したる。 その折しも、御前に人もなくて、向ひ参らせたるに、憂かりし月日の積りつるよりうち始め、ただ今までのこと、御袖の涙はよその人目もつつみあへぬほどなり。何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きいたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも聞こえけるにや、しばし立ち止まり給ひけるも、いかでか知らむ。さるほどに、例の人よりは早き御心なれば、「さにこそありけれ」と推(すい)し給ひけるぞあさましきや。 入らせ給ひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、絞りもあへざりつる御涙は、包む袂に残りあれば、「いかが御覧じとがむらん」とあさましきに、火灯すほどに還御なりぬる後、ことさらしめやかに、人なき宵のことなるに、御足など参りて、御とのごもりつつ、「さて、思ひのほかなりつることを聞きつるかな。されば、いかなりけることにか。いわけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御ことに思ひ参らせ、かやうの道には思ひかけぬことと思ふに」と((「と」は底本「そ」。))、うち口説き仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひ見しことの始めより、別れし月の影まで、つゆ曇りなく申したりしかば、「まことに不思議なりける御契りかな。さりながら、さほどに思し召し余りて、隆顕((四条隆顕。底本表記、「たか秋」))に道芝(みちしば)せさせられけるを、情けなく申したりけるも、御恨みの末も、かへすがへすよしなかるべし。昔の例(ためし)にも、かかる思ひは人を分かぬことなり。柿の本僧正((真済))、染殿の后((文徳天皇后、藤原明子。))の物の怪にて、あまた仏菩薩の力尽し給ふといへども、つひにはこれに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺の聖には、『ゆらぐ玉の緒』と情けを残し給ひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)を改めたりき。この御気色なほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。われこころみたらば、つゆ人は知るまじ。このほど伺候し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れ給ふやうにはからふべし。さやうの勤めの折からは、悪(あ)しかるべきに似たれども、われ深く思ふ子細あり。苦しかるまじきことなり」と、ねむごろに仰せられて、「何事にも、われに隔つる心のなきにより、かやうにはからひ言ふぞ。いかがなどは、かへすがへす心の恨みも晴る」など承るにつけても、いかでかわびしからざらむ。 「人より先に見そめて、あまたの年を過ぎぬれば、何事につけても、なほざりならず思ゆれども、何とやらむ、わが心にもかなはぬことのみにて、心の色の見えぬこそ、いと口惜しけれ。わが新枕(にひまくら)は、故典侍大(こすけだい)((作者母))にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地して、よろづ世の中つつましくて明け暮れしほどに、冬忠((大炊御門冬忠))・雅忠((大炊御門雅忠))などに主(ぬし)づかれて、暇をこそ人悪(わろ)くうかがひしか。腹の中にありし折も、心もとなく、『いつか、いつか』と、手の内なりしよりさばくりつけてありし」など、昔の旧事(ふること)さへ言ひ知らせ給へば、人やりならず、あはれも忍びがたくて、明けぬるに、「今日より御修法始まるべし」とて、御壇所いしいしひしめくにも、人知れず心中にはもの思はしき心地すれば、顔の色もいかがと、われながらよその人目もわびしきに、すでに、「御参り」と言ふにも、つれなく御前に侍るにも、御心のうちいとわびし。 [[towazu3-01|<>]] ===== 翻刻 ===== さもかこつかたなき人めすをとのきこゆれはなにことにかと おもひてまいりたるに御まへには人もなし御ゆとののうへにひとり たたせたまひたる程なりこのほとは人々のさとすみにてあま りにさひしき心ちするにつねにつほねかちなるはいつれのかたさまに/s113l k3-1 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/113 ひく心にかなとおほせらるるもれいのとむつかしきにあり明の 月御まいりのよしそうすやかてつほねの御所へいれまいらせ か(ら歟)るれはいかかはせむつれなく御まへに候にそのころいま御所 と申はゆうき門院いまた姫宮にをはしまししころの御 ことなり御なやみわつらはしくてほとへたまひける御いのり に如法あいせんわうをこなはるへき事申させ給又その外 も我御いのりにほくとの法それはなるたきにやうけ給い つよりものとやかなる御物かたりのほとさふらふも御心の 中いかかとをそろしきに宮の御かたの御心地わつらはしくみえ させ給ふよし申されたれはきといらせ給とて還御まち たてまつりたまへと申たるそのおりしも御まへに人もなくて/s114r k3-2 むかひまいらせたるにうかりし月日のつもりつるよりうちは しめたたいままてのこと御袖のなみたはよその人めもつつ みあへぬほとなりなにと申へきことの葉もなけれはたた うちききいたるにほとなく還御なりけるもしらすおなしさま なるくとき事御しやうしのあなたにもきこえけるにやしは したちとまりたまひけるもいかてかしらむさる程にれい のひとよりははやき御心なれはさにこそ有けれとすいし給 けるそあさましきやいらせたまひぬれはさりけなきよしに もてなしたまへれともしほりもあへさりつる御なみたはつつむ たもとにのこりあれはいかか御らむしとかむらんとあさましきに火 ともすほとに還御なりぬるのちことさらしめやかに人なきよひの/s114l k3-3 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/114 ことなるに御あしなとまいりて御とのこもりつつさておもひのほ かなりつることをききつるかなされはいかなりけることにかいわけ なかりし御ほとよりかたみにをろかならぬ御ことにおもひまいら せかやうの道にはおもひかけぬこととおもふにそうちくときおほせ らるれはさる事なしと申ともかひあるへきことしあらねはあひ 見しことのはしめよりわかれし月のかけまて露くもりな く申たりしかはまことにふしきなりける御契かなさりなから さほとにおほしめしあまりてたか秋にみちし葉せさせられ けるをなさけなく申たりけるも御うらみのすゑも返々よしなかる へしむかしのためしにもかかるおもひは人をわかぬことなりかきの もとの僧正そめとののきさきのもののけにてあまた仏菩薩/s115r k3-4 のちからつくしたまふといへともつゐにはこれに身を捨給に けるにこそ志賀てらのひしりにはゆらく玉のをとなさけ をのこしたまひしかはすなはち一念のまうしゆをあら ためたりきこの御けしきなをさりならぬことなり心えてあ ひしらひ申せ我心みたらは露人はしるましこのほとしこ うし給ふへきにさやうのつゐてあらは日ころのうらみを わすれ給ふやうにはからふへしさやうのつとめのおりからは あしかるへきににたれとも我ふかくおもふしさいありくるし かるましきことなりとねむ比におほせられてなにことにも 我にへたつる心のなきによりかやうにはからいいふそいかかなとは 返々心のうらみもはるなとうけたまはるにつけてもいかてかわひし/s115l k3-5 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/115 からさらむ人よりさきに見そめてあまたのとしをすきぬれはなに ことにつけてもなをさりならすおほゆれともなにとやらむ我心 にもかなはぬ事のみにて心の色のみえぬこそいとくちおしけれ 我にゐ枕はこすけ大にしもならひたりしかはとにかくに人 しれすおほえしをいまたいふかひなきほとの心地してよろつ 世の中つつましくてあけくれし程に冬たた雅たたなとに ぬしつかれてひまをこそ人わろくうかかひしかはらの中にありし おりも心もとなくいつかいつかとてのうちなりしよりさはくり つけてありしなとむかしのふることさへいひしらせたまへは人や りならすあはれもしのひかたくてあけぬるにけふより御修法 はしまるへしとて御たん所いしいしひしめくにも人しれす心中/s116r k3-6 には物おもはしき心地すれはかほの色もいかかと我なからよその 人めもわひしきにすでに御まいりといふにもつれなく御まへに侍 にも御心のうちいとわひしつねに御つかひにまいらせらるたにも/s116l k3-7 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100218515/viewer/116 [[towazu3-01|<>]]