沙石集 ====== 巻9第5話(114) 悪縁に値て発心する事 ====== ===== 校訂本文 ===== 洛陽に、貧しくして世を渡る者ありけり。妻、夫に言ひけるは、「かく貧しく心苦しき世間、耐へ忍ぶべしとも思えず。人のせぬことにもあらず。強盗・引剥(ひはぎ)((「引剥」は底本「引制」。諸本により訂正。))をもして、われを養ひ給へかし」と言ふ。「人の貧しきは常のことなり。いかが、さやうのわざをばすべき」と言ふに、妻、恨みくねり、うち泣きなんどして、「さらば暇(ひま)をたべ。いかなる人をも憑(たの)みて過ぎん」と言ふ。 さすがに心ざしも浅からざりけるにや、内野の方へ行きて、うかがひけるほどに、日の暮れ方に、女人の、女の童一人具して通りけるを、人も見えざりければ、走り寄りて、うち殺して、二人が着物剥ぎて帰りぬ。 血付きたる小袖どもを取り集めて、「これこそ、しかじかのことしてまうけたれ」と、妻に取らせければ、「さこそ言ひしかども、かはゆきことか」なんども言ふべきに、笑みまうけて、よに嬉しげなる顔気色、あまりに恐しく、うとましく覚えければ、日ごろの情も心ざしも忘れて、やかてさし出でて、ある僧房にて出家して、高野((高野山金剛峰寺))へ上りぬ。さて、一筋にかの後世菩提をとぶらひ、よしなく殺してし罪の深さ、悔しくも悲しくも思えて、念仏の功積みけり。 ある時月夜に、ある入道、語らひよりて物語しければ、「御発心の因縁こそゆかしけれ。誰も申さん。それにも仰せられよ。これは、都に住み侍(はんべ)りしが、歎くことありて、住み慣れし都も心もとどまらず、あくがれ出でて、この御山へ上りて」と言ふ。「これも都の者にて侍るが、思ひのほかの縁にあひて、出家して侍るなり」と言ふ。「しかるべき因縁にこそ、参りあひて侍らめ。くはしく仰せられよ。誰も申さん」と言へば、いと慎ましげにはありながら、しひて問ひければ、「隠すべきにもあらず」と思ひて、「あひ語らひて侍りし者に勧められて、思ひのほかのことをなんして侍りし」と、ありのままに語りければ、いつごろにて侍りし」、また、女人の小袖の色、年のほど、こまごまと問ひけるを、ありのままに申しければ、この入道、手をはたと打ちて、「さては、御辺はそれがしが善知識にてこそおはすれ。かの女は、志深く侍りし者なり。某(それがし)におくれて、やがて出家して侍るなり。かかる縁なくば、いかでか仏道修行の形となり、道に思ひ入るべき。しかるべき善知識にこそ。御辺のほかの同行あるべからず。ともに、かの菩提をとぶらひ助けん」とて、互ひに涙を流しけり。 ともに勤め行ひて、一人はすでに臨終正念にて終りにけり。今一人は当時も侍るとかや。世にもあらば仇(あた)むべきに、かくともに菩提に思ひ入りて、同行になりにける。いとありがたくこそ。人の世にある、後れ先立つ歎き、高き賤しき、常の習ひなれども、必ずしも発心することまれなり。ただ、あるまじきことのやうにのみ思ひあへるに、賢かりける心ざまなり。 生死の長夜(ぢやうや)には、会離の悲しみ絶えぬ習ひと知りながら、愛を捨て、道に入る人のなきこそ愚かなれ。歎きあらん人、この跡を忍びて、永く衆苦充満(しゆくじうまん)の世界を捨てて、早く快楽不退(けらくふたい)の浄刹を願ふべきものなり。 ===== 翻刻 =====   値悪縁発心事 洛陽ニ貧クシテ世ヲ渡ル者有ケリ妻夫ニ云ケルハカクマツシク 心クルシキ世間タヘ忍ヘシトモ覚ヘス人ノセヌ事ニモアラス強 盗引制ヲモシテ我ヲ養ヒ給ヘカシトイフ人ノ貧キハ常ノ事也 イカカサヤウノワサヲハスヘキトイフニ妻恨クネリ打泣ナントシテサ ラハ暇ヲタヘ何ナル人ヲモ憑テスキントイフサスカニ心サシモア サカラサリケルニヤ内野ノ方ヘユキテウカカヒケルホトニ日ノクレ カタニ女人ノメノワラハ一人具シテトヲリケルヲ人モ見ヘサリケ/k9-342r レハ走リヨリテ打殺シテ二人カキモノハキテ帰リヌ血ツキタル小 袖共ヲ取集メテ是コソシカシカノ事シテマウケタレト妻ニトラセケ レハサコソ云シカトモカハユキ事カナントモイフヘキニ笑マウケテ ヨニウレシケナル顔気色餘ニ恐クウトマシクオホエケレハ日来 ノ情モ心サシモワスレテヤカテサシ出テ或僧房ニテ出家シテ高 野ヘノホリヌサテ一スチニ彼後世菩提ヲ訪ヒヨシナクコロシテ シ罪ノフカサクヤシクモカナシクモオホヱテ念仏ノ功ツミケリ或 時月夜ニアル入道カタラヒヨリテ物語シケレハ御発心ノ因 縁コソユカシケレ誰モ申サンソレニモ被仰ヨ是ハ都ニ住ハンヘ リシカ歎ク事有テスミナレシ都モ心モトトマラスアクカレ出テ 此御山ヘ上リテトイフコレモ都ノ者ニテ侍カ思ノ外ノ縁ニ 値テ出家シテ侍也トイフ可然因縁ニコソ参リアヒテハンヘラ/k9-342l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=341&r=0&xywh=-2298%2C576%2C5375%2C3195 メ委ク仰ラレヨ誰モ申サントイヘハイトツツマシケニハアリナカラ シヰテ問ケレハカクスヘキニモ非スト思テ相語ラヒテ侍シ者ニ ススメラレテ思ノ外ノ事ヲナンシテ侍シトアリノママニ語リケレハ イツコロニテ侍シ又女人ノ小袖ノ色年ノホトコマコマト問ケル ヲ有ノママニ申ケレハ此入道手ヲハタト打テサテハ御辺ハソ レカシカ善知識ニテコソオハスレ彼女ハ志深ク侍シモノナリ 某ニヲクレテヤカテ出家シテ侍也カカル縁ナクハ争カ仏道修 行ノ形トナリ道ニ思入ヘキ可然善知識ニコソ御辺ノ外ノ 同行アルヘカラストモニ彼菩提ヲ訪ヒ助ケントテ互ニ涙ヲ流 シケリ共ニ勤メ行ヒテ一人ハ既ニ臨終正念ニテヲハリニ ケリ今一人ハ当時モ侍トカヤ世ニモアラハアタムヘキニカク共 ニ菩提ニ思入テ同行ニナリニケルイト有カタクコソ人ノ世ニ/k9-343r アル後レ先タツ歎キ高キ賤キ常ノ習ナレ共必スシモ発心ス ル事希ナリ只アルマシキ事ノヤウニノミ思アヘルニ賢カリケル 心サマナリ生死ノ長夜ニハ会離ノ悲ミタエヌ習トシリナカラ 愛ヲステ道ニ入人ノナキコソ愚カナレ歎キアラン人此跡ヲ 忍テ永ク衆苦充満ノ世界ヲステテハヤク快楽不退ノ浄刹 ヲ願フヘキモノ也 沙石集第九上終/k9-343l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=342&r=0&xywh=-1790%2C416%2C5805%2C3451