沙石集 ====== 巻8第8話(101) 廻向の心狭き事 ====== ===== 校訂本文 ===== 和州の山里に百姓ありけり。草堂を造りて、供養の導師に、西大寺の思円房の上人を請ず。 願文の廻向の言葉を聞きて、「この堂は故婆にて候ひし者のために、とかく励みて造りて候ふ。法界衆生に御廻向候へば、婆は萱(ちがや)一筋にも当りも付き候はじと思え候ふ。ただ婆がためとばかりあそばされ候へ」と申すに、「功徳は廻向すれば、いよいよ大にして失することなし。聖霊の功徳、大なるべし」と細やかに教へられければ、「さては、めでたきことにて候ひけり。ただし、隣に候ふ三郎検校と申す者ばかりは、除かせ給ひ候へ」と申す。 さしたる敵(かたき)にてありけるゆゑなるべし。一切衆生の中に、ただ一人もらしけんも、けしからずこそ思ゆれ。これは、その座にありける僧の物語なり。 世間の人の廻向の文も、ただ理(ことわり)ばかりにて、まことの心は薄くこそ。かの百姓に最(いと)変らじかし。 ===== 翻刻 =====   廻向之心狭事 和州ノ山里ニ百姓有ケリ草堂ヲ造リテ供養ノ導師ニ西 大寺ノ思円房ノ上人ヲ請ス願文ノ廻向ノ詞ヲ聞テ此堂 ハ故婆ニテ候シ者ノタメニトカクハケミテ造テ候法界衆生ニ 御廻向候ハ婆ハ萱一スチニモアタリモツキ候ハシト覚候唯/k8-297l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=296&r=0&xywh=-2206%2C599%2C5375%2C3195 婆カタメトハカリアソハサレ候ヘト申ニ功徳ハ廻向スレハイヨ イヨ大ニシテウスル事ナシ聖霊ノ功徳大ナルヘシトコマヤカニ教 ヘラレケレハサテハ目出度事ニテ候ケリ但シトナリニ候三郎 検校ト申者ハカリハノソカセ給候ヘト申サシタルカタキニテ有 ケル故ナルヘシ一切衆生ノ中ニ唯一人モラシケンモケシカラ スコソオホユレ是ハ其座ニ有ケル僧ノ物語也世間ノ人ノ廻 向ノ文モタタ理ハカリニテマコトノ心ハウスクコソ彼百姓ニ最 カハラシカシ/k8-298r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=297&r=0&xywh=-379%2C472%2C5805%2C3451