沙石集 ====== 巻8第3話(96) 鴛の夢に見ゆる事 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、下野国に阿曽沼といふ所に、常に殺生を好み、ことに鷹つかふ俗ありけり。ある時、鷹狩して、帰りざまに鴛(をし)の雄を一つ捕りて、餌袋に入れて帰りぬ。 その夜の夢に、装束尋常なる女房、姿形よろしきが、恨み深き気色にて、さめざめとうち泣きて、「いかにうたてく、わらはが夫をは殺させ給へる」と言ふ。「さることこそ候はね」とい へば、「たしかに今日召しとりて候ふものを」と言ふ。なほかたく論ずれば、   日暮るればさそひしものをあそ沼のまこも隠れのひとり寝ぞうき とうちながめて、ふつふつと立つを見れば、鴛の雌なり。 うちおどろきて、あはれに思ふほどに、朝見れば、昨日の雄に((「に」は底本「也」。諸本により訂正))、觜(はし)食ひ合はせて、雌の死せるありける。これを見て、発心し出家して、やがて遁世の門に入り侍りけるとなん語り伝へて侍る。あはれなりける発心の因縁なり。 漢土に法宗といひけるも、鹿のはらみたる中腹((「中腹」は底本「由腹」。諸本により訂正。))を射破るに、子の落ちたるを、矢をふくみながら、子を舐(ねぶ)りけるを見て、やがて弓矢を折り捨て、髪を剃りて徒に入る。法華の持者にて、終りめでたきこと、法華の伝に見えたり。発心の縁、定まりなきことなり。 ===== 翻刻 =====   鴛之夢見事 中比下野ノ国ニ阿曽沼ト云所ニ常ニ殺生ヲコノミコトニ 鷹ツカフ俗有ケリアル時タカ狩シテ帰リサマニ鴛ノ雄ヲ一トリ テ餌袋ニ入テ帰リヌソノ夜ノ夢ニ装束尋常ナル女房スカタ カタチヨロシキカ恨ミフカキ気色ニテサメサメト打ナキテイカニウ タテクワラハカ夫ヲハコロサセ給ヘルトイフサル事コソ候ハネトイ ヘハタシカニ今日メシトリテ候モノヲト云猶カタク論スレハ/k8-292r   日暮レハサソヒシモノヲアソヌマノマコモカクレノヒトリネソ ウキト打ナカメテフツフツトタツヲ見レハ鴛ノ雌ナリ打オトロキテ 哀ニ思ホトニ朝見レハ昨ノ雄也ハシクヒアハセテ雌ノ死セル有 ケル是ヲ見テ発心シ出家シテヤカテ遁世ノ門ニ入リ侍リケルト ナンカタリ伝テ侍ルアハレナリケル発心ノ因縁也漢土ニ法宗 トイヒケルモ鹿ノハラミタル由腹ヲイヤフルニ子ノオチタルヲ矢 ヲフクミナカラ子ヲネフリケルヲミテヤカテ弓矢ヲ折ステ髪ヲソ リテ徒ニ入法華ノ持者ニテオハリ目出キ事法華ノ伝ニ見ヘ タリ発心ノ縁定リナキ事也/k8-292l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=291&r=0&xywh=-1929%2C537%2C5375%2C3195