沙石集 ====== 巻7第8話(85) 継女、蛇欲に合ふ事 ====== ===== 校訂本文 ===== 下総国にある者の妻、十二・三ばかりなる継女(ままむすめ)を、大きなる沼の畔(ほとり)へ具して行きて、「この沼の主に申す。この女を参らせて、婿にし参らせん」と、たびたび言ひけり。 ある時、世間すさまじく、風吹き空曇れる時、また例のやうに言ひけり。この女、ことに恐しく身の毛いよ立つ。沼の水波立ち、風荒くして見えければ、急ぎ家へ帰るに、ものの追ふ心地しければ、いよいよ怖しなんどいふばかりなし。 さて、父に取り付きて、「かかることなんありつる」と、日ごろのことまで語る。さるほどに、母も内へ逃げ入りぬ。その後、大きなる蛇来たりて、頸を上げ舌を動かして、この女を見る。 父、下郎なれども、さかさかしき者にて、蛇に向ひて、「この女は、わが女なり。母は継母(ままはは)なり。わが許しなくては、いかでか取るべき。母が言葉によるべからず。妻は夫に従ふことなれば、母をば心にまかす。取るべし」と言ふ時、蛇、女をうち捨てて、母が方へ這ひ行きぬ。 その時、父、この女をかひ具して逃げぬ。この蛇、母にまとひ付きて、物狂はしくなりて、既(に蛇になりかかりたると)((括弧内、底本なし。梵舜本により補う。))聞こえき。 文永年中、夏のころのこと沙汰しき。「来月三日、大雨大風吹きて荒れたらん時出づべし」と申しあひしが、まことにかの日、おびただしく荒れて、風雨激しく侍りき。まさしく出でけることは聞かざりき。 人のため腹黒きは、やがてわが身に負ひ侍るにこそ。「人を危ぶめては、おのれが落ちんことを思へ」と言へり。因果のことわり、たがふべからす。 ===== 翻刻 =====   継女蛇欲合事 下総国ニ或者ノ妻十二三ハカリナル継女ヲ大ナル沼ノ畔/k7-275r ヘクシテ往テ此沼ノ主ニ申コノ女ヲ参セテムコニシマイラセント 度々云ケリアル時世間スサマシク風吹空曇レル時又例ノヤ ウニイヒケリ此女殊オソロシク身ノ毛イヨタツ沼ノ水浪タチ風 アラクシテ見ヘケレハ急家ヘ帰ニ物ノ追心地シケレハイヨイヨ怖 ナント云計ナシサテ父ニトリツキテカカル事ナン有ツルト日比 ノ事マテ語ルサルホトニ母モ内ヘニケ入ヌ其後大ナル蛇キタリ テ頸ヲアケ舌ヲ動シテ此女ヲ見ル父下郎ナレトモサカサカシキ者 ニテ蛇ニ向テ此女ハ我女也母ハ継母也我ユルシナクテハ争 カトルヘキ母カ詞ニヨルヘカラス妻ハ夫ニ従フ事ナレハ母ヲハ 心ニマカストルヘシトイフ時蛇ムスメヲ打捨テ母カ方ヘハイユ キヌソノトキ父コノ女ヲカイ具シテニケヌコノ蛇母ニマトヒツキテ 物クルハシク成テ既聞キ文永年中夏ノ比ノ事沙汰シキ来/k7-275l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=274&r=0&xywh=-894%2C-1%2C6967%2C4142 月三日大雨大風フキテアレタラン時出ヘシト申アヒシカ実ニ 彼日オヒタタシクアレテ風雨ハケシク侍キ正シク出ケル事ハキ カサリキ人ノタメハラクロキハヤカテ我身ニヲヒ侍ニコソ人ヲア ヤフメテハヲノレカオチン事ヲ思ヘトイヘリ因果ノコトハリタカ フヘカラス/k7-276r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=275&r=0&xywh=153%2C390%2C5805%2C3451