沙石集 ====== 巻6第18話(76) 君の忠ありて栄ふる事 ====== ===== 校訂本文 ===== 先年のころ、何者の言ひ出だしたりけるにや、「相手を孔子(くじ)に取りてことをし、相手引出物をせば、時の横災をまぬかるべし」といふこと、京・田舎にあまねくその沙汰ありて、上(かみ)つかたにもこのことありけるにや、ある公卿((「公卿」は底本「公郷」。諸本により訂正。))の御所に。「このことあるべし」とて、相手を定められけるに、恩も蒙らず、私(わたくし)の蓄へもなくして、貧しき侍の宮仕へけるが、主(しゆ)の御相手に取りあたりぬ。「これも不運の至り」と、身にも思ひ、よそにも沙汰しけり。 かたのごとく商ひて世を渡りける貧しき((「貧しき」は底本「貪シキ」。諸本により訂正。))女人を、年ごろあひ語らひて過ぎけるが、妻に語り申しけるは、「しかるべき契りにて、年ごろたがひに志浅からずして過ぎつれば、『かぎりあらん道にも、遅れ先立たじ』とこそ思へども、思ひのほかのこと出で来れば、『出家入道して国々をも修行せばや』と思ひ立ちたり。『あひ添はんことも、今夜ばかり』と思ふに、名残の惜しさこそ、心に思ふほども言はれね」とて、さめざめと泣きければ、妻、「何事によりて、かかる心の出で来ける。道心のおこり給へるか」と問へば、「道心にはあらず。御所中に、『世間に沙汰する御事あるべし』とて、相手を孔子(くじ)に取りつるに、人こそ多かるに、上(かみ)の御相手にしも取り当たりて、恥をかきなんず。傍官(ぼうくわん)ならば、かたのごとく前をも払ふべきに、見苦しからんことも恐れあること、よろしく営まんとすれば、その力なし。ただ跡をくらふして、ついでに、道心なくとも山々寺々をも修行して、恥がましきことを遁れんと思ふばかりなり」と言へば、この妻、申しけるは、「そのことならば何しに歎き給はん。人は果報も幸も、心にこそあれ。たとひ、つひに世を遁れんと思はんにつけても、すでに御相手に参りぬ。尋常なる御引出物をも進(まゐ)らせてこそ、御所中をもまかり出で給はめ。先世の契あればこそ、妻男ともなりて、今日まで志変らずして過ごしつらめ。栄えば同じく栄え、まどはばともにこそまどはめ。この家地(やち)なんどあれば、質(しち)かへて営み給へ」と言ふに、夫、申けるは、「果報つたなくして、今まで御恩も蒙らねば、思ひ出でもなくて、年ごろ日ごろ過ごしつるだにも、心苦くかたはらいたきに、われゆゑ、それさへまどひ給はんことこそ口惜しけれ」と言へば、「いかにかくは思ひ給はん。ことのついでに、ともに尼法師にもなりて、後世菩提の勤めせば、善知識とこそ思ひ奉らめ。これほどのありがひもなき世間は、まどふとても歎きにもあらず」と言ひければ、「志の色、まことに浅からず見えける上は、さらば、ともかくも女房のはからひにしたがはん」とて、屋地を売りて、用途五・六十貫がほどありけるにて、銀の折敷(おしき)に金の橘を作らせて、ことごとしからぬやうに紙に包み、懐中して、手にいろいろの引出物どもしけり。 「いかにも、某(それがし)は上の御相手に参りて、その用意あるか」と、傍官ども問ひければ、「いかでか用意つかまつらざらん」と言ふ。「いかばかりのことか、し出だすべき」とて、目引き鼻引き顔をそばめてぞ、をかしげに思ひける。上にも、よにかたはらいたきことに思し召したる気色なりけり。 すでに、懐(ふところ)より、紙に裸(つつ)みたる物を取り出だすを見て、「させることあらじ」と思ひて、あまりのかたはらいたさに、諸人、面をうつぶせけり。さて、御前に置きたる物を引き広げて見給へば、銀の折敷に金の橘を置きたり。心も及ばず作りたりけり。これを見て、みな目驚かし、諸人、苦(にが)りてぞ見えける。 「そもそも、なにとして、御恩もなきに、かかる不思議はし出だしたるぞ」と、御所中の人に尋ね給ひければ、「かかる子細とぞ承る」と、くはしく聞きたる人、申しければ、大きに感じ仰せられけり。 さるほどに、返り引出物とて、紙一牧をぞ給ひける。都近き庄の千石ばかりなるを給ひて、富み栄えて、いよいよ奉公つかまつり、重ねて御領も預り、かたがた栄華めでたくありける。 妻の志こそありがたく侍れ。されば、人の貧しくとも、心をばたふさず、恥をも知り、忠をもいたすべきことなり。 ===== 翻刻 =====   君忠栄事 先年ノ比何者ノ云出シタリケルニヤ相手ヲ孔子ニ取テ事ヲ シ相手引出物ヲセハ時ノ横災ヲマヌカルヘシト云事京田舎 ニ普クソノ沙汰アリテカミツカタニモ此事アリケルニヤ或公郷 ノ御所ニ此事アルヘシトテ相手ヲサタメラレケルニ恩モ蒙ラス/k6-238l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=237&r=0&xywh=-3226%2C249%2C6450%2C3835 私ノタクハヘモ無シテ貧シキ侍ノ宮仕ケルカ主ノ御相手ニ取 アタリヌ是モ不運ノイタリト身ニモ思ヒヨソニモサタシケリカタ ノコトクアキナヒテ世ヲワタリケル貪シキ女人ヲ年来相語テス キケルカ妻ニ語リ申ケルハ然ルヘキ契ニテ年来互ニ志アサカラ スシテ過ツレハカキリアラン道ニモヲクレサキタタシトコソ思ヘトモ 思ノホカノ事出来レハ出家入道シテ国々ヲモ修行セハヤト思 立タリ相ソハン事モ今夜ハカリト思ニ名残ノヲシサコソ心ニ 思ホトモイハレネトテサメサメト泣ケレハ妻何事ニヨリテカカル心 ノイテキケル道心ノオコリ給ヘルカト問ヘハ道心ニハアラス御 所中ニ世間ニサタスル御事アルヘシトテ相手ヲ孔子ニ取ツル ニ人コソ多カルニ上ノ御相手ニシモ取アタリテ恥ヲカキナンス 傍官ナラハ如形マヘヲモハラフヘキニ見苦カラン事モ恐有事ヨ/k6-239r ロシク営マントスレハ其ノ力ラナシ只跡ヲクラフシテツヰテニ道 心ナクトモ山々寺々ヲモ修行シテ恥カマシキ事ヲノカレント思 ハカリナリトイヘハ此妻申ケルハ其事ナラハ何シニナケキ給ハン 人ハ果報モ幸モ心ニコソアレ縦ツヰニ世ヲノカレント思ハンニ 付テモステニ御相手ニ参リヌ尋常ナル御引出物ヲモ進テコ ソ御所中ヲモ罷出給ハメ先世ノ契アレハコソ妻男トモナリテ 今日マテ志カハラスシテスコシツラメ栄ヘハ同ク栄ヘマトハハ共ニ コソマトハメ此家地ナントアレハシチカヘテイトナミ給ヘトイフ ニ夫申ケルハ果報ツタナクシテ今マテ御恩モカウフラネハ思出 モ無テ年来日来スコシツルタニモ心苦クカタハライタキニ我故 ソレサヘマトヒ給ハン事コソ口惜ケレト云ヘハ何ニカクハ思給 ハン事ノツヰテニ共ニ尼法師ニモナリテ後世菩提ノ勤セハ善/k6-239l 知識トコソ思ヒタテマツラメ是ホトノアリカヒモナキ世間ハマト フトテモナケキニモアラスト云ケレハ心指ノ色誠ニアサカラス見 ヘケル上ハサラハトモカクモ女房ノハカラヒニシタカハントテ屋 地ヲウリテ用途五六十貫カホトアリケルニテ銀ノ折敷ニ金 ノ橘ヲツクラセテコトコトシカラヌヤウニ紙ニツツミ懐中シテ手ニ色 色ノ引出物共シケリイカニモ某ハ上ノ御相手ニ参テ其用 意アルカト傍官共問ケレハ争カ用意仕ラサラント云イカハカリ ノ事カシ出スヘキトテ目ヒキ鼻引カホヲソハメテソオカシケニ思 ケル上ニモヨニカタハライタキ事ニ思食タル気色ナリケリ既ニ フトコロヨリ紙ニ裸タルモノヲトリ出スヲ見テサセル事アラシト 思テ餘ノカタハライタサニ諸人面ヲウツフセケリサテ御前ニ置 タル物ヲヒキヒロケテ見給ヘハ銀ノ折敷ニ金ノ橘ヲ置タリ心モ/k6-240r ヲヨハス作タリケリ是ヲ見テ皆目驚シ諸人ニカリテソ見ヘケル 抑ナニトシテ御恩モナキニカカル不思議ハシ出シタルソト御所 中ノ人ニ尋給ケレハカカル子細トソ承ルト委クキキタル人申 ケレハ大ニ感シ被仰ケリサルホトニ返引出物トテ紙一牧ヲソ 給ケル都近キ庄ノ千石ハカリナルヲ給テ冨栄テイヨイヨ奉公ツ カマツリ重テ御領モ預リ方々栄花目出クアリケル妻ノココロ サシコソアリカタク侍レサレハ人ノ貧クトモ心ヲハタヲサス恥ヲモ シリ忠ヲモ至スヘキ事也/k6-240l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=239&r=0&xywh=-1877%2C436%2C5805%2C3451