沙石集 ====== 巻6第7話(65) 有所得の説法の事 ====== ===== 校訂本文 ===== 邪命説法(じやみやうせつぽう)といふ名目は、仏蔵経に出でたり。有所得(うしよとく)ともいへり。同じことなり。 世間の人は、有所得といふは、布施をのぞみてする説法と思へり。経中には、「諸法実相を知らずして、有為の法を説きて、無相の理を説かざるは邪命説法なり。無所得の道理を説かざるがゆゑに、有所得といへり。かかる説法は、三千大千世界の人の眼をくじるよりも罪なり。また、日夜に十悪を作る者よりも重き罪なり。十悪を造る者をば、人これを師とせず。その身、苦に堕すといへども、人を引きて落すことなし。有所得の説法は、人をして生死の業を増し、実相の理に遠ざからしむ」と言へり。まして、布施の希望(けまう)は名利のためなれば、言ふにたらず。 ただし、正法念処経には、「名利の心なくして、利他の思ひに住して法を説くは、上品(じやうぼん)の法施。勝他の心にて説くは、中品の法施なり。名利のために説くは、下品の法施なり。天上の智慧の鳥となりて、法音をさへづる」と言へり。これは、法をありのままに正直に説きて、しかも利益を思ふにや。 仏蔵経の説は、実相に違すれば、世間の福業あれども、菩提にうとし。この経に、われ無量の仏にあひて供養せしに、多劫の間、ただ転輪王の位を得て、菩提を得ず。諸法実相を悟りて、われ仏となれり」と説き給へり。 されば有相の福は、次の生に威勢ありて天に生じ、もしくは、国王・大臣・長者ともなれども、真実の智慧・道心なくて、威勢にほこりて衆生を悩乱し、罪業を造りて、第三生に必ず悪道に入るなり。着相(ぢやくさう)なくして福を作るは、道の助けなり。執心ありて善を修するは、出離にはうとし。福業に道を障(さ)へ、道を助くる二つのさま、ただ着の有無による。よくよくわきまへ存ずべきものなり。 仏蔵経は、道人の見るべき経なり。説法せん人、いかにも無相の法門を説き、正直に説くべし。わが非を隠さんとて、因果を乱るべからず。 十輪経((大方広十輪経))には、末代には、正見僧とて、わが身非法なりとも、仏法の道理を正直に説き、善悪因果を乱らず、生死涅槃の差別を説かば、福田たるべきよし、見えたり。心地観経((大乗本生心地観経))にも、「この人をば僧宝とすべし」と言へり。羅什三蔵、濫行(らんぎやう)になりて後は、寺のほとりに住して、縵衣(まんえ)をかけて、説法のたびごとに、まづ、「わが身は泥のごとし。わがいたす言は蓮華のごとし」とぞ申されける。 末代には、わが身の非を知らず、持戒の人をばくたし、かへりて非法の行を徳と思ひ、道俗に向ひて自歎し、濫行非法にして放逸なる人多し。福田の徳もあるべからず。心あらん人、聖教によりて、わが非を飾ることなかれ。 天人、南山大師((道宣))に語りて、「破戒の人を守(まぼ)らずは、誰(たれ)か仏法を広めん」と言へり。これは正見の僧なるべし。邪見ならば利益もなし。天人、何ぞこれを守らん。 ===== 翻刻 =====   有所得之説法事 邪命説法と云名目は仏蔵経に出たり有所得とも云り同し 事也世間の人は有所得と云は布施をのそみてする説法と思 へり経中には諸法実相をしらすして有為の法を説て無相の 理をとかさるは邪命説法也無所得の道理をとかさるかゆへ に有所得と云りかかる説法は三千大千世界の人の眼をく しるよりも罪也又日夜に十悪を作る者よりもをもき罪なり十 悪を造る者をは人是を師とせす其身苦に堕すといへとも人を 引ておとすことなし有所得の説法は人をして生死の業をまし実 相の理にとをさからしむと云りまして布施の希望は名利のため なれはいふにたらす但し正法念処経には名利の心なくして利他 の思に住して法を説くは上品の法施勝他の心にて説くは中品/k6-218l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=217&r=0&xywh=-2904%2C165%2C6450%2C3835 の法施也名利の為めにとくは下品の法施也天上の智慧の 鳥と成りて法音をさへつるといへり此は法をありのままに正直 に説てしかも利益を思にや仏蔵経の説は実相に違すれは世 間の福業あれ共菩提にうとし此経に我無量の仏に値て供 養せしに多劫之間只転輪王の位をゑて菩提をゑす諸法実 相を悟て我仏と成れりと説き給へりされは有相之福は次の 生に威勢ありて天に生し若は国王大臣長者ともなれとも真 実の智慧道心なくて威勢にほこりて衆生を悩乱し罪業を造 りて第三生に必す悪道に入るなり著相なくして福を作るは道 の助也執心有て善を修するは出離にはうとし福業に道をさへ 道を助くる二の様たた著の有無による能々わきまへ存すへき 者なり仏蔵経は道人の見るへき経也説法せん人いかにも無/k6-219r 相の法門を説き正直に説くへし我か非をかくさんとて因果を みたるへからす十輪経には末代には正見僧とて我身非法也 とも仏法の道理を正直に説き善悪因果をみたらす生死涅 槃の差別を説かは福田たるへき由見へたり心地観経にも此 人をは僧宝とすへしといへり羅什三蔵濫行になりて後は寺の 辺に住して縵衣をかけて説法の度ことにまつ我身は泥のことし 我いたす言は蓮華のことしとそ申されける末代には我身の非 をしらす持戒の人をはくたしかへりて非法の行を徳と思ひ道 俗に向ひて自歎し濫行非法にして放逸なる人多し福田の徳 もあるへからす心あらん人聖教によりて我非をかさる事なかれ 天人南山大師にかたりて破戒の人をまほらすはたれか仏法を ひろめんといへり是は正見の僧なるへし邪見ならは利益もなし/k6-219l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=218&r=0&xywh=-2125%2C398%2C5805%2C3451 天人何そ是をまほらん/k6-220r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=219&r=0&xywh=-891%2C-1%2C6967%2C4142