====== 巻4第8話(36) 道人、執着を捨つべき事 ====== ===== 校訂本文 ===== 小原の僧正、顕真座主、四十八日の間、往生要集の談義し給ふことありけり。法然房の上人((源空))、俊乗房の上人((重源))なんど、談義の衆にて、小原の上人たち、あまた座につらなり、如法の後世の学問の談議なりけり。 四十八日功終へて、人々退散しけるに、法然房・俊乗房両上人ばかり、はし近く居て、法然房、申されけるは、「このほどの談議の所詮、いかか御心得候ふ」と、俊乗房に申されければ、「秦太瓶(じんだがめ)((糂粏瓶。糠味噌を入れる瓶。))一つなりとも、執心とまらん物は捨つべしとこそ心得て候へ」と語らる。 僧正、御簾の内にて聞き給ひて、「上人たち何事を語り給ふぞ」と仰せられければ、「俊乗房、かくこそ申し候へ」と、法然房、申されければ、御衣の袖に御涙をはらはらとこぼして、「これほどの談議に、これほどにめづらしきこと承はらず」とて、随喜し給ひけるよし、ある人語り侍りき。 まことに無始の輪廻は、一心の執心よりおこりて、生死の牢獄破りがたし。一代の諸教、方便の門広けれども、ただ衆生の執心をのぞきて、無我の理に入るるほかの所詮なし。されば、法華((法華経))にも、「衆生処々着。引之令得出。(衆生処々に着す、これを引きて出づることを得せしむ)」と説きて、ただ顛倒のむなしき所を達す。このゆゑに、菩提は無得なりと言ふ。 衆生の執着除きがたきゆゑに、仏の説法の中にも、般若を説き給ふこと三十年、諸部の般若、ただ第一義空の一理なり。自性清浄・無相寂滅のところに、能所の分別を生じ、自他の執着を生じて、無量の煩悩を起こし、無窮の妄苦を受く。般若の火をもて、煩悩の薪を焼き、生死の海を渡り、涅槃の岸に至らむこと、執着を捨つるよりほかのことあるべからず。 一切の過(とが)は、ただ執心なり。執する所の万法多ければ、能治の法門に名を立つといへども、執着の心は、ただ一つの不了の妄念、背覚合塵の情量なり。一切の法門は、またただ中道第一義空なり。 大智論((大智度論))に、般若経の十八空を釈すとしていはく、「空は一なれども、除く所の法にしたがひて、十八の名を立つ。たとへば、火は一つなれども、薪にしたがひて、松の火とも、竹の火とも言ふがごとし。衆生の内我をやるゆゑに内空(ないくう)といひ、外境をやるゆゑには外空(げくう)といふ。中間の執をやらんとして、内外空(ないげくう)と言へり。根本の我相を除かば、枝末おのづから断ちやすし。仏法修行の人、根本の執を除かずして、我相をもて法の相をとり、情量をもて解行を断つるは、賊を養ひて子とすれば、家財を失ふ戒めあり。大乗の空門、仏法の源底に心をかけ、誤りなく信解して、いづれの行をも励むべし。我相を除き、執心を恐れて、名利を思はず、才覚を求めずして、さしあたりたる執着・妄念の過(とが)を覚知して、除くべきなり。毒の矢の身に立ちたらんをば、ただとく抜くことを思ふべし。広く余事を論じ、矢の善悪・長短などを沙汰せざれ」と言へり。 故栂尾の明慧上人((明恵))の申されけるは、「凡夫の習ひ、煩悩はみな具足せしとも、ことに重き障りあり。それに眼をつけて、まづ対治(たいぢ)すべし。とりわき心をかけ、まことしく治せざれば、逃れがたし。衣の垢をすすくに、世の常の垢は落ちやすし。染みものは、とりわき灰汁(あく)をもそへ、水をもふくみて、ねんごろに洗はざれば、落ちざるがごとし」とのたまひけるとかや。 されば、よそのことを知り、才覚を好まんよりは、我心の三毒五欲の中に、ことに重きをまづ対治すべし。仏神にも祈り、聖教の中の対治の薬を用ゐて、これを除くべし。 南山律師((道宣))のいはく、「聖教の本意は、ただ奉行のためなり。もしただ文を読まば本意にあらざるなり」と。「まことに行ぜんとする、なほ相応いたし、ただ文を読みて、行を立てざるは、広く地をしめて持てども、種をまき、水を引き、作らざれば、草のみ生ひて、稲を得ざるかごとし」と言へり。「外の宝を数ふるに、半銭の分なきがごとし」とも言へり。 毘沙門堂の故明禅法印、止観の談議せられける座席に、遁世門の入道、のぞみて聴聞するありけり。法門のついでに、楽天((白居易))の詩を引き出だしていはく、「匹如身後有何事応向世間無所求。文の意は、人の一物も手に持たぬを、匹如身(ひつにょしん)と言ふ。また杖つくほどの地も持たぬを、応向世間(おうやうせけん)と言ふ。身に一物持たず、住所もなく、捨て果てぬる身は、なかなか求むる所もなく、煩ふべきこともなし。かかる人ぞ、道に入りたる姿なるべき」と言ふ談議を聞きて、「止観の法門は承り候ひぬ」とて、座を立ちければ、「この入道は、止観一部はみな心得つ」とぞ、法印申されける。 南山大師も、「五部の律を知らんと思はば、ただ財・色の二事を断つべし」と言へり。まことに仏法の肝心、多かるべからず。老子の言へるがごとし。「一を抱きて、天下の式(のり)たり」と。いはんや、仏法に入りては、一心を明らめ空門に入りなば、万事すべて明らかにして、とどこほるべからず。明鏡に像の跡なく、虚空の色に染まざるかごとく、身と心を練(れん)じなす、まことの道心なるべし。 先徳、「道行いかん」と問ひて、「一切無染なり」と言へり。無染の一句、行者の肝心なるべし。俗なほいはく、「事(こと)寡(すく)なければ心やすく、情忘れぬれば累(わづら)ひ薄し」と。されば、古(いにしへ)の賢人、世に仕(つか)へずして、心をやすくし、おのれが道を養ふ、かしこき心なるべし。 人の世にあるを見るに、福貴に誇り栄花を愛する、ただ苦をもて楽とし、労をもて富とす。身大なれば事多く、位高ければ心苦し。竜の頭(かしら)多ければ、苦多きがごとし。ただ、人のことを沙汰し、人の煩ひを請け取り、上に仕へ下をかへりみ、世にしたがひ、友に交はる。閑(しづ)かならざるをもて栄とし、苦しみ多きをもつて貴しと思ひなれたり。身もやすく心も閑かなるをば楽と知らず。まことに愚かなるかな。 楽天いはく、「富貴亦有苦。苦在心危憂。貧賤亦有楽((「貧賤」は底本「貧賊」。白居易「詠意」により訂正。))。楽在身自由。(富貴もまた苦有り。苦は心の危憂に在り。貧賤もまた楽有り。楽は身の自由に在り。)」。この言まことなるかな。心憂へ身危ふくば、何の楽しみもよしなし。林下の貧道の、風月にうそぶきて、法味を味はひ、心を道門に染め、身に解脱を期して、世上を幻のごとく思ひ、身心を夢のごとく観じて、希望なく、貧求なくば、当時も安らかにして、後生も頼みあるべし。 賢首菩薩(げんじゆぼさつ)((法蔵))のいはく、「真楽本有失而不知。妄苦本空得而不覚(真楽は本有なるを失ひても知らず。妄苦は本空なるを得ても覚らず)」と言へり。真楽といふは、分別の念妄に煩悩を作りて苦悩を受く。本空なりといへども、その中に憂愁す。愚かなるかな、まづ世間の名利を捨つる、一重の妄苦を離るる始めなり。貧をやすくして、道を愛する、また、始めて解脱の道に足を上ぐる方便なり。 光明皇后の、内裏の屏風に書き置き給へるとかや。「清貧は常に楽しみ、濁富(だくふ)は常に憂ふ」と。まことに執心深く、世路を営む人は、財あれども、いよいよ飽き足らはずのみあるままに、求むる時も煩ひ、守る時も苦しく、失なひぬれば((「ぬれば」は底本「スレハ」。文脈により訂正。))、いよいよ憂ふ。たとひ一期安穏にたもつといへども、中有の資糧ともならず、冥途の伴侶ともならず。されば、経にいはく、「田あるものは田を憂へ、家あるものは家を憂ふ。牛馬六畜なければこれを求め、あればまたこれを養ふ憂へあり。有るにつけても憂へ、無きにつけても憂ふ」と言へり。 人間そうそうとして、一期夢のごとし。むなしく明け暮れて、また三途の旧里に帰りなんとす。これ濁富の今世も後世も、憂へあるべきことわりなり。 ただ天運にまかせ、先業をかへりみて、希望(けまう)の心なく、貧賤((「貧賤」は「貧賊」。文脈により訂正))を歎かずして、仏道に心を入れ、空門に思ひを澄まし、内に所得なく、外に所求なく、身閑かに心安くして、仏法修行の功を積まんばかり、人身の思ひ出であらんじかし。 俗士、なほ世上を軽(かろ)しめ、無常をわきまへて、「蝸牛角上何事争。石火光中此身寄(蝸牛の角上何事をか争ふ。石火の光中此の身寄す)」と言へり。まことに、栄枯こと過ぎぬれば、みな夢となる。憂喜心に忘れなば、空門に入りやすかるべし。今も昔も、真実の道人は、貪着((「貪着」は底本「貧著」。文脈により訂正。))の過(とが)を恐れて、無染の行を心ざすものなり。 故松の尾の松月房の上人((慶政))の寺に、南都の律僧来たることありけり。客僧のもてなしに、種々の珍物ありけるに、いささか貪着((「貪着」は底本「貧著」。文脈により訂正。))の心おこられけるにや、「汝等比丘莫得楽住三界火宅。勿貪麁蔽色声香味触也。若貪着((「貪着」は底本「貧著」。文脈により訂正。))生愛則為所焼。」と声うち上げて誦し、箸うち立ててはらはらと泣きけり。まことの道心者と聞こえし人なり。終りもめでたく聞こえ給ひき。 およそ、教門の大小・権実は、一往の義門なり。能化の意にのぞめ実証の所を言ふには、「一理平等の無為の上の差別なり。まことには高下なし。行人においては、何の教門もただよく行じて、執心妄念なき、これ本意なり。されば、古徳のいはく、「情塵已遣、人乗即是真諦。心跡未亡、仏乗猶非究竟。何者、有心分別、一切皆邪。無心攀縁、万途自正。(情塵已に遣れば、人乗即ちこれ真諦。心跡未だ亡ぜざれば、仏乗なほ究竟にあらず。何者、心の分別有れば、一切皆邪なり。心の攀縁無ければ、万途自ら正なり。)」と。このゆゑに、阿差未経にいはく、「常正其意不学餘事。正者無義也。一切念無特正念也。(常にその意を正しく余事を学ばず。正は無義なり。一切の念無き時正念なり。)」。 経にいはく、「念一切法不念般若。念般若不念一切法。(一切の法を念ずれば般若を念ぜず。般若を念ずれば一切の法を念ぜず)」と言へり。般若は火聚(くわじゆ)の四方よりとるべからざるがごとく、情識をもて縁ずべからず。ただ一切の分別なき時、般若に相応すべし。大乗の行人、朝暮に心行を察して、塵労に染むことなかれ。 圭峰禅師((圭峰宗密))いはく、「以空寂為自身勿認色身。以霊知為自心勿認妄念(文)。(空寂をもつて自身と為して色身を認むることなかれ。霊知をもつて自心と為して妄念を認むることなかれ。)」。これすなはち止観修行の肝要なり。常に心にかけて忘るべからず。この心を思ひつづけ侍り。   白露に苔の衣はしぼるとも月の光は濡れんものかは 妄念、あだに結び置くこと露のごとし。色身、仮に織りなすこと衣に似たり。心、五塵六欲に貪着((「貪着」は底本「貧著」。文脈により訂正。))し、身、六趣四生に苦悩するは、露に衣のしほるるがごとし。月は静にして、空寂の理に似たり。光は明にして、霊知の徳のごとし。この所を解し行じて、万境に向かひてとどこほらすは、光の露に濡れざるがごとく、本来明静天然寂照の時の光、虚妄幻化の露に濡るべからず。 志の及ぶところばかり、述懐を書き付け侍り。をこがましく侍れども、もとより愚かなる人の心を勧めんための物語なり。賢き人のためにあらず。知音おのづから心を得て、あざけることなかれ。 圭峰の言を題にして思つづけ侍り   よしもなく地水火風かり集めわれと思ふぞ苦しかりける   八十(やそぢ)までかり集めたる地と水火と風いつかぬしに返さん   よしさらばもぬけて去らん惜しからず八十(やそぢ)にあまる空蝉(うつせみ)の殻(から)   誤りに影をわれぞと思ひそめてまことの心忘れはてぬる   明らかにしづかなるこそまことにはわが心なれそのほかは影 随分述懐          無住八十三歳 ===== 翻刻 =====   道人可捨執著事 小原ノ僧正顕真座主四十八日ノ間往生要集ノ談義シ 給事有ケリ法然房ノ上人俊乗房ノ上人ナント談義ノ衆ニ/k4-147r テ小原ノ上人達アマタ座ニツラナリ如法ノ後世ノ学問ノ談 議也ケリ四十八日功ヲヱテ人々退散シケルニ法然房俊 乗房両上人ハカリハシチカク居テ法然房申サレケルハ此ホト ノ談議ノ所詮イカカ御心得候ト俊乗房ニ申サレケレハ秦太 瓶一ナリトモ執心トマラン物ハスツヘシトコソ心得テ候ヘトカ タラル僧正御簾ノウチニテキキ給テ上人タチ何事ヲカタリ給 ソト仰ラレケレハ俊乗房カクコソ申候ヘト法然房申サレケレ ハ御衣ノ袖ニ御涙ヲハラハラトコホシテ此ホトノ談議ニ是程ニメ ツラシキ事承ハラストテ随喜シ給ケルヨシ或人語侍キ実ニ無 始ノ輪廻ハ一心ノ執心ヨリヲコリテ生死ノ牢獄ヤフリカタシ 一代ノ諸教方便ノ門ヒロケレトモ只衆生ノ執心ヲノソキテ 無我ノ理ニ入ルル外ノ所詮ナシサレハ法華ニモ衆生処々著/k4-147l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=146&r=0&xywh=-2050%2C605%2C5409%2C3195 引之令得出ト説テタタ顛倒ノ空キ所ヲ達ス是故ニ菩提ハ 無得也ト云衆生ノ執著ノソキカタキユヘニ仏ノ説法ノ中ニ モ般若ヲトキ給事三十年諸部ノ般若只第一義空ノ一 理也自性清浄無相寂滅之処ニ能所之分別ヲ生シ自他 之執著ヲ生シテ無量ノ煩悩ヲ起シ無窮ノ妄苦ヲウク般若ノ 火ヲモテ煩悩ノ薪ヲヤキ生死ノ海ヲワタリ涅槃ノ岸ニイタラ ム事執著ヲスツルヨリ外ノ事アルヘカラス一切ノトカハタタ執 心也執スル所ノ万法多ケレハ能治ノ法門ニ名ヲタツトイヘト モ執著ノ心ハタタ一ノ不了ノ妄念背覚合塵ノ情量也一切 ノ法門ハ又只中道第一義空也大智論ニ般若経ノ十八 空ヲ釈ストシテ曰ク空ハ一ナレトモノソク所ノ法ニシタカヒテ十 八ノ名ヲ立ツタトヘハ火ハ一ナレトモ薪ニシタカヒテ松ノ火ト/k4-148r モ竹ノ火トモイフカコトシ衆生ノ内我ヲヤルユヘニ内空トイヒ 外境ヲヤル故ニハ外空トイフ中間ノ執ヲヤラントシテ内外空ト イヘリ根本ノ我相ヲノソカハ枝末ヲノツカラタチヤスシ仏法修 行ノ人根本ノ執ヲノソカスシテ我相ヲモテ法ノ相ヲトリ情量ヲ モテ解行ヲタツルハ賊ヲヤシナヒテ子トスレハ家財ヲウシナウイマ シメ有リ大乗ノ空門仏法ノ源底ニココロヲカケアヤマリナク 信解シテイツレノ行ヲモハケムヘシ我相ヲノソキ執心ヲオソレテ 名利ヲ思ハス才覚ヲモトメスシテサシアタリタル執著妄念ノトカ ヲ覚知シテノソクヘキナリ毒ノ箭ノ身ニタチタランヲハタタトクヌク 事ヲ思ヘシヒロク餘事ヲ論シ箭ノ善悪長短等ヲ沙汰セサレ ト云リ故栂尾ノ明慧上人ノ申サレケルハ凡夫ノ習煩悩ハ 皆具足セシトモコトニヲモキ障アリソレニ眼ヲツケテマツ対治ス/k4-148l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=147&r=0&xywh=-1821%2C584%2C5409%2C3195 ヘシトリワキ心ヲカケマコトシク治セサレハノカレカタシ衣ノ垢ヲ ススクニヨノツネノアカハオチヤスシシミモノハトリワキ灰汁ヲモソ ヘ水ヲモフクミテネンコロニアラハサレハオチサルカ如シトノ給ケル 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心者トキコエシ人也終モ目出クキコヘ給キ凡ソ教門ノ大小 権実ハ一往ノ義門也能化ノ意ニノソメ実証ノ所ヲイフニハ 一理平等之無為ノ上ノ差別也実ニハ高下無シ行人ニヲ ヰテハ何ノ教門モ只ヨク行シテ執心妄念ナキ是本意也サレハ 古徳ノ云情塵已遣人乗即是真諦心跡未亡仏乗猶非 究竟何者有心分別一切皆邪無心攀縁万途自正ナリト/k4-151l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=150&r=0&xywh=-2535%2C628%2C5409%2C3195   是故ニ阿差未経云常正其意不学餘事正者無義 也一切念無時正念也経云念一切法不念般若念般若 不念一切法トイヘリ般若ハ火聚ノ四方ヨリトルヘカラサルカ 如ク情識ヲモテ縁スヘカラスタタ一切ノ分別ナキ時般若ニ相 応スヘシ大乗ノ行人朝暮ニ心行ヲ察シテ塵労ニソム事ナカレ 圭峯禅師云以空寂為自身勿認色身以霊知為自心勿 認妄念(文)是則止観修行之肝要也常ニココロニカケテワス ルヘカラス此心ヲ思ツツケ侍リ   白露ニ苔ノ衣ハシホルトモ月ノ光ハヌレンモノカハ妄念ア タニムスヒヲク事露ノ如シ色身カリニヲリナス事衣ニ似タリ心 五塵六欲ニ貧著シ身六趣四生ニ苦悩スルハ露ニ衣ノシホ ルルカ如シ月ハ静ニシテ空寂ノ理ニ似タリ光ハ明ニシテ霊知ノ徳/k4-152r ノコトシコノ所ヲ解シ行シテ万境ニ向テトトコホラスハ光ノツユニ ヌレサルカコトク本来明静天然寂照ノ時ノ光虚妄幻化ノ 露ニヌルヘカラス志ノ及処ハカリ述懐ヲ書付侍リオコカマシク 侍レ共モトヨリヲロカナル人ノ心ヲススメンタメノ物語ナリカシ コキ人ノタメニアラス知音ヲノツカラ心ヲエテアサケル事ナカレ 圭峯ノ言ヲ題ニシテ思ツツケ侍リ ヨシモナク地水火風カリアツメ我レト思ソクルシカリケル ヤソチマテカリアツメタル地ト水火ト風イツカヌシニカヘサン ヨシサラハモヌケテサランオシカラスヤソチニアマルウツセミノカラ アヤマリニ影ヲ我レソト思ソメテマコトノ心ワスレハテヌル アキラカニシツカナルコソマコトニハ我カ心ナレソノホカハカケ 随分述懐          無住八十三歳/k4-152l https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=151&r=0&xywh=-2105%2C571%2C5409%2C3195 徳治三年戊申五月二十一日 沙石集巻第四下終     神護寺    迎接院/k4-153r https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012949#?c=0&m=0&s=0&cv=152&r=0&xywh=-913%2C-1%2C7010%2C4142