[[index.html|醒睡笑]] 巻4 聞こえた批判 ====== 27 京にて銀子三十貫目持ちたる者命終の時妻に向かひ・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== [[n_sesuisho4-026|<>]] 京にて、銀子三十貫目(くわんめ)持ちたる者、命終(いのちおはり)の時、妻に向かひ「わが先腹の男子(なんし)六歳なり。十五までは育て、十五にならば銀を五百目((一貫の半分。))渡し、いづくへも商(あきなひ)につかはすべし。残る銀は、そちままにせよ」と遺言して、書き物をし、渡しぬ。 かの子、すでに十五になる時、右の後家、銀子を五百目子にやり、「いづくへも出でよ」と言ふ。子、さりとも難儀なるむね、所司代板倉周防守((板倉重宗))へ申し上ぐる。母と子とを呼び出だし、委細(ゐさい)に言はせ聞き給ひて、その町の年寄どもに、「かの親の行跡(かうせき)は」とあれば、一同に申すやう、「世に越えたる理知義者(りちぎしや)、また才覚もあり、公義の御用をととのへ、町の重宝にて御座候へ」と。 周防守殿、後家に問ひ給ふ。「その銀子はもとのごとくありや」。「なかなかあり」。「さては、なんぢが夫、日本一の思案者(しあんしや)なりしぞかし。そのゆゑは、人の親として子に物の惜しからんや。『女房に取らすると言はずは、銀をみなつかひ捨つべし』と工夫の上にて言ひ置きたるなり。しかるあひだ、後家に取らするといひし三十貫目をば子にやるべし。子につかはすと言ふ五百目をば後家にいたし、それをもつて寺参りの香花に宛て、そちは一円子にうちかかり、心のままに馳走(ちそう)せられ、やすやすと世を送れ。もし子があひしらひ悪しく、気にあはぬことあらば、こちへ知らせよ。曲事(くせごと)に行なはん」と下知ありつれば、聞く者みな、涙を流さぬはなかりき。 かくてて座を立たんとするに、件(くだん)の親がいとこたる老人とて、書き物を一通持ちて出で、周防守へ捧げていはく、「『さだめて一度は、子と後家と出入(でいり)あらんこと疑ひなし。これを上げて申せ。後家に言ひ渡したるは、始めの日付なり。そちへ書き置くは、日付後なり』と申せし。今仰せ出ださるる御下知を、謹しんで承らんためまかり出でたり。親が存じたりし心底(しんてい)と、御批判の趣(おもむき)、少しも違(たが)はず」と、手を合せ礼して感じたり。 [[n_sesuisho4-026|<>]] ===== 翻刻 ===== 一 京にて銀子卅貫目持たる者命終(いのちをはり)時妻に   むかひ我か先腹の男子(なんし)六歳也十五まてはそ   たて十五にならは銀を五百めわたしいつくへも   商(あきない)につかはすへし残る銀はそちままにせよ   と遺言(ゆいごん)して書物をし渡しぬ彼子既(すて)に   十五になる時右の後家銀子を五百目子に   やりいづくへも出よといふ子さりとも難儀(なんき)な   る旨所司代板倉周防守へ申上る母と子とを/n4-24r   よひ出し委細にいはせ聞給て其町の年寄   ともに彼親(おや)の行跡(かうせき)はとあれは一同に申様   世に越たる理知義者(りちきしや)又才覚(さいかく)もあり公義の   御用をととのへ町の重宝にて御座候へと   周防守殿後家に問給ふ其銀子はもとのことく有や   中々あり扨は汝(なんぢ)か夫日本一の思案(しあん)者なりしぞ   かし其故は人の親(おや)として子に物のおしからんや   女房にとらするといはすは銀をみな遣すつべし   と工夫の上にていひ置たるなり然間後家に/n4-24l   とらするといひし卅貫目をは子にやるべし   子に遣すといふ五百目をは後家にいたしそれ   をもつて寺参の香花にあてそちは一円子   に打かかり心の儘(まま)に馳走せられ安々と世を   送もし子かあひしらひあしく気にあはぬ事   あらはこちへしらせよ曲事(くせこと)に行はんと下知あ   りつれは聞者皆涙を流さぬはなかりき角   て座をたたんとするに件の親かいとこたる   老人とて書物を一通持て出周防守へ捧(ささげ)て言/n4-25r   さためて一度は子と後家と出入あらん事疑ひ   なしこれを上て申せ後家にいひ渡したるは   始の日付なりそちへ書置は日付後也と申せし   今仰出さるる御下知を謹て承らんため罷出   たり親(おや)か存たりし心底(しんてい)と御批判(ひはん)の趣すこ   しも違(たが)はすと手を合礼して感(かん)したり/n4-25l