撰集抄 ====== 巻9第2話(112) 貞基事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、大江の貞基((大江定基・三河入道・寂照・円通大師))といふ博士ありけり。身は朝につかへ、心は隠にありて((「ありて」は底本「のりて」。諸本により訂正。))、つねに、「人間の栄耀は因縁浅し、林下の幽閑は気味深し」と思ひ取りながら、さるべき縁にあはざるほどに、髻(もとどり)をささげて、世の中に交はりて侍りけるが、年ごろ、去りがたく思えける女の身まかりけるより、ふつに思ひ取りて、清水の上綱と聞こえ給へりし智者の御もとにゆきて((底本、「御」の下三字虫損。))、かしらおろし、戒受け給へりにけり((底本「給へり」の下二字虫損。))。 そののち、いくばくのほども経ずして、保胤の内記((慶滋保胤))のもとにおはして、「え去らぬ方にさしとどめられて、はしたなめ、わづらはしめられし、憂き世の絆(ほだし)を離れてこそ侍れ」とのたまはするに、内記もかねてよりうらやましく思はるる道なれば、あざやかなる袂も、しぼるばかりにて侍りける。 つひに((「つひに」は底本「つゐゐに」。諸本により「ゐ」を一字削除。))内記も志をとげて、台嶺の幽閑にこもりて、止観の明静なることを、増賀上人に習ひ伝へて、徳いたりてぞいまそかりける。 さても、大江の入道、かしこき智者どもに会ひ給ひて、まことの道を悟り極め、世を厭ふ心のいや増すにのみなりゆくままに、なにとなく唐土(もろこし)へ渡らまほしく思えて、両三の同朋、さそひつれ給ひにけり。 一つ、心にかかること侍り。年老いたる母のいまそかりける。「『われ、唐土(もろこし)に渡りぬる』と聞かば、老いの波に歎き沈みて、命もあやうかるべし。いかがせん」と思ひわづらひながら、母の前に詣でて、暇(いとま)を乞ふに、母の言ふやう、「恩愛別離の悲しみは、いかでかたとへて忍ぶべき。されば、仏ももの悲しむことには、悲母の一子を思ふことにたとへ給へれば、われいかでか歎きの心なからん((「なからん」は底本「ならん」。諸本により補う。))。しかはあれども、求法伝受の志をば、などか喜ばざらん。それこそ、釈子のかひに侍らめ」と聞こえけるに、入道、嬉しさやらんかたなく思えて、母のために善を修しける願文に、   我母是不人世之母、是善縁之母也。   若万人緩頬苦心而諫之、我未必従。   若一親形言変色而唱之、我可何逆哉。   誠我勧于仏道、寧非之慈堂哉。 と書けりけるに、聞く者、涙を流さずといふことなし。 このことの、なほ悲しくや思えけむ、たから寺((宝積寺))にて、静源供奉を請じて、重ねて八講を修し侍りけるぞ、「げにも」と、あはれには侍る。さも、ゆゆしかりける母の心かな。人の親の、子を思ふ習ひ、しばしのほどの別れをだにも、堪へかぬるものなるを、なほ万里の波濤を隔てて、またもあひ見るまじき最後の別れを、法の道に思ひ替へけむ心、ありがたくは侍らずや。 すべて、かかるためしは、またもあるべしとも思えず。「上人の私なき心を、三世(みよ)の仏たちの、あはれと見そなはして、母の心をやはらげ給へりけるやらん」とぞ、思え侍る。 上人、つひに唐土(もろこし)に渡り給ひて、法のしるしども、数多く施し給へりければ、御門、叡慮ことなびきて、「円通大師」と大師号をぞ付けられける。 このこと、書き置ける旧跡を見侍りしに、そぞろに涙を流して侍りき。ことの見捨てがたかりし上に、「このおろかに注(しる)す所の筆の跡、もれても人の見るよし((「見るよし」は底本「見よかし」。諸本により訂正))あらば、かしこき昔をも忍び給ひて、一つ蓮の種ともなし給へかし」と思ひ侍りて、書き載するに侍り。 古き巧みの言葉を、いやしげに引きなすわざの憚(はばか)り、よろづの罪をも、この志一つにかたどりて、草がくれなんあとまでも、我をそばむるわざなかれとなり。 ===== 翻刻 ===== 昔大江の貞基と云博士ありけり身は朝に仕へ 心は隠にのりて常に人間栄耀は因縁 浅林下幽閑気味深と思ひとりなからさるへき 縁にあはさる程に本鳥をささけて世中に交り て侍りけるか年比さり難く覚ける女の身まか りけるよりふつに思取て清水の上綱と聞 給へりし智者の御□□□ゆきてかしらおろし/k273r 戒うけ給へり□□り其後幾の程も経すして保胤 の内記のもとにおはしてゑさらぬ方にさしととめ られてはしたなめわつらはしめられしうき世 のほたしをはなれてこそ侍れと宣給はするに 内記も兼より浦山敷おもはるる道なれはあさ やかなる袂もしほるはかりにて侍りけるつゐゐ に内記も志をとけて台嶺の幽閑に籠て 止観の明静なることを僧賀上人にならひ伝て 徳到りてそいまそかりける扨も大江の入道かしこき 智者ともにあひ給て実の道を悟りきはめ/k274r 世をいとふ心のいやますにのみなりゆくままになにと なくもろこしへわたらまほしく覚て両三の同朋さそ ひつれ給にけり一心にかかること侍り年老たる母のいま そかりける我もろこしに渡りぬると聞は老のなみ に歎き沈て命もあやうかるへしいかかせんと思 煩なから母の前にまうてていとまをこふに母の云やう 恩愛別離の悲はいかてかたとへて忍ふへきされは 仏も物の悲むことには悲母の一子を思事にたとへ 給へれはわれいかてか歎の心ならんしかはあれとも求 法伝受の心さしをはなとかよろこはさらんそれこそ/k274l 尺子の甲斐に侍らめと聞けるに入道うれし さやらん方なく覚て母のために善を修し ける願文に 我母是不人世之母是善縁之母也若万人緩頬苦 心而諫之我未必従若一親形言変色而唱之 我可何逆哉誠我勧于仏道寧非之慈堂哉 とかけりけるに聞者なみたをなかさすといふ事 なし此ことのなを悲や覚けむたから寺にて 静源供奉を請してかさねて八講を修し 侍りけるそけにもと哀には侍るさもゆゆしかり/k275r ける母の心かな人のをやの子を思ふならひしはしの 程の別をたにもたえかぬる物なるをなを万里の波 濤を隔てて又もあひみるましき最後の別を法 の道に思替けむ心ありかたくは侍らすやす へてかかるためしは又もあるへしともおほえす上人の 私なき心をみよの仏達のあはれとみそなはして 母の心をやはらけ給へりけるやらんとそ覚侍る 上人つゐにもろこしに渡り給て法のしるし共 数おほく施し給へりけれは御門叡慮殊なひきて 円通大師と大師号をそつけられける此/k275l 事かきをける旧跡をみ侍しにそそろに涙をなか して侍りきことの見すてかたかりし上にこの をろかに注す所のふての跡もれても人の見 よかしあらは賢き昔をも忍給て一蓮のたねと もなし給へかしと思侍りてかきのするに侍り旧き たくみの詞をいやしけに引なすわさの憚りよろ つの罪をも此志一にかたとりて草かくれなん 跡まても我をそはむるわさなかれとなり/k276r