撰集抄 ====== 巻8第33話(108) 鳥羽院事(琵琶) ====== ===== 校訂本文 ===== 鳥羽院、かくれさせ給ひしかば、院中かみさびて、声々音立つる虫は、われにともなふ心地して、凛々たる秋の月をのみ恨みあひて、花の袂をかへて濃き墨染となす人々いまそかりけり。 御中陰には、光頼((藤原光頼))・成頼((藤原成頼))なんどのいまそかりけるなんめり。この人々、夜の更けゆくままに、そのこととなく悲う思えて、寝(いね)もせられでおはしけるに、故院の常に住ませおはしましし御所((「御所」は底本「御書」。諸本により訂正))のかたに、琵琶の気高くいみじき音の聞こえ侍りければ、胸さはぎて、「こはいかに、御中陰のほどに、誰ならん」とあさましく聞き給ふほどに、故院のまさしき御声にて、   第一第二絃索々 秋風払松疎韻落   第三第四絃冷々 夜鶴憶子籠中鳴   第五絃声最掩抑 滝水凍咽流不得 といふ楽天((白居易))の詩を、押し返し、押し返し、両三度まで、高らかに詠ぜさせ給へり。少しもたがはぬ故院の御声にていまそかりければ、不思議に思ひて聞くに、夜半(よは)の明け方近きまで、御琵琶は聞こえさせ給へり。 されば、こは何にならせ給へるぞや。あまり御琵琶に御心を入れさせおはしましければ、昔唐土(もろこし)の妓女が、野路に骨をとめて、夜もすがら琴を弾きけるごとくにてやいまそかりけん。また、魔道なんどに落ちさせ給へりけるにや。また、世には賀茂明神の生れかはらせ給へり。八条の二位殿、あらたなる玉を給へりし上に、こま人の言葉、化人とこそ思え侍しかば、まことの明神にて、琵琶をも弾かせおはしますにや。 ===== 翻刻 ===== らはていかにとしてかしり侍へき鳥羽院かくれ させ給ひしかは院中かみさひて声々ねたつる 虫は我にともなふ心ちして凛々たる秋月をのみう らみあいて花の袂をかへてこき墨染となす人々 いまそかりけり御中陰には光頼成頼なんとの/k261l いまそかりけるなんめり此人々夜の更行ままに そのこととなく悲ふ覚ていねもせられておはし けるに故院の常にすませおはしましし御書 の方に琵琶の気高くいみしき音の聞え侍り けれは胸さはきてこはいかに御中陰の程にたれ ならんと浅猿く聞給ふ程に故院の正き御声 にて第一第二絃索々秋風払松疎韻落第三 第四絃冷々夜鶴憶子籠中鳴第五絃声最 掩抑滝水凍咽流不得といふ楽天の詩ををし 返々両三度まてたからかに詠せさせ給へ/k262r りすこしもたかはぬ故院の御声にていまそ かりけれは不思議におもひて聞に夜はの明か た近きまて御琵琶は聞えさせ給へりされは こはなににならせ給へるそやあまり御琵琶に 御心を入させおはしましけれは昔もろこしの妓 女か野路に骨をとめて夜もすから琴を引 けることくにてやいまそかりけん又魔道なん とにおちさせ給へりけるにや又世には賀茂明 神の生れかはらせ給へり八条の二位殿あらたなる 玉給を給へりし上にこま人の詞化人とこそ/k262l 覚侍しかは実の明神にて琵琶をもひかせ おはしますにや/k263r