撰集抄 ====== 巻8第9話(84) 直幹事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、橘直幹といふ文章博士、無実を蒙りて、「流さるべし」とて、「明日なん宣下くだる」と聞こえけるに、力なし。 「先世の宿執にこそ」と思ひ侍れど、年ごろ、いとほしく侍りし妻子も別れがたく、住み慣れし都をふり捨てて、旅立たんことの、去りがたく思えて、「北野((北野天満宮。菅原道真を祀る。))こそ、かやうのことには、あらたなることどもおはしまし侍るなれ」とて、その夜、参りこもりて、泣く泣く終夜(よもすがら)祈念し侍りける暁方に、御殿内に、大きに気高き御声にて、「道風((小野道風))、道風」と呼ばせ給ふに、道風の声にて、答(いら)へ申しけり。さて、仰せらるる。「この直幹、歎き申すこと、無実にて侍れば、御免除あるべき状書きて、直幹に賜ぶべし」といふ御声あり。 うけたまはるに、身の毛、いよ立ちて、かたじけなく思えて、泣き居たるに、やや((「やや」は底本「やく」。諸本により訂正))しばしありて、たてぶめる文を、御簾の内より、さつと投げ出だされたり。 直幹、急ぎ開きて見れば、 >文章博士橘直幹、依無実蒙勅勘事、返々不便也。於今度者、可御優免之由、天神之御気色候。小野道風奉也。 と書かれたり。 悦びをなして、宿(やど)に急ぎ帰りて、ことの侍りけるありさまをくはしく書きて、この状 を奏聞し侍るに、叡慮大きに御驚きありて、道風が自書の申文を開かるるに、天徳二年(とせ)の睦月の十日あまりのころ、近江守を望める状の、   紫宸殿之皇居((底本、「紫震殿之皇后」。典拠により訂正。))  七廻書賢聖之障子   大嘗会之宝祚  両度黷尽図之屏風   視三朝之徳化((底本「視」は「親」。諸本、及び典拠により訂正。))  身猶雖沈本朝   隔万里之波濤  名是得播唐国 と書ける手跡を、いささかもたがはざる上は、御門、怖れをなさせ給ひて、流罪をとどめ給ひて、あまさへ日ごろ望み申しける式部大輔になされ侍りけり。 ことに、あらたにぞ思え侍る。 ===== 翻刻 ===== 昔橘直幹といふ文章博士無実を蒙りて 流さるへしとて明日なん宣下くたると聞 えけるにちからなし先世の宿執にこそと思侍 れと年比いとをしく侍りし妻子も別かたく すみなれし都をふりすてて旅たたんことの/k239r 難去覚て北野こそかやうのことにはあらたな る事ともをはしまし侍るなれとてその夜ま いりこもりて泣々よもすから祈念し侍ける暁 方に御殿内に大きにけたかき御声にて道風 々々とよはせ給ふに道風の声にていらへ 申けりさて仰らるる此の直幹歎申事無実 にて侍れは御免除あるへき状かきて直幹 にたふへしと云御声ありうけ給はるに身の けいよたちて忝く覚て泣ゐたるにやく しはしありてたてふめる文をみすの内よ/k239l りさつとなけ出されたり直幹いそき開 て見れは文章博士橘直幹依無実蒙勅勘 事返々不便也於今度者可御優免之由 天神之御気色候小野道風奉也 とかかれたり悦をなしてやとにいそき帰り て事の侍りけるありさまを委くかきて此状 を奏聞し侍るに叡慮大に御驚ありて道 風か自書の申文をひらかるるに天徳二とせの む月の十日あまりの比近江守を望る状の 紫震殿之皇后 七廻書賢聖之障子/k240r 大嘗会之宝祚 両度黷尽図之屏風 親三朝之徳化 身猶雖沈本朝 隔万里之波濤 名是得播唐国 とかける手跡をいささかもたかはさる上は御門 おそれをなさせ給ひて流罪をととめ給てあ まさへ日比のそみ申ける式部大輔になされ侍 りけり殊あらたにそおほえ侍る/k240l