撰集抄 ====== 巻7第3話(63) 相模国大庭僧事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、相模国大庭といふ野の中に、形のごとくの庵結びてをれる僧、一人侍りき。ときどき里に出でて、物を乞ひて、命をつぎ、人につかはれて身をたすくるはかりごとをなし((底本「命を」(正確には「のちを」)から「はかりごとをなし」まで欠文。諸本により補う。))つつ、世をわたり侍りけるとかや。 さて、その里に、世心地おびたたしくはやりて、高き卑しき、しづ心なく病みをりけり。そのに、するかたもなく貧しき者、夫をすでになきものに見なして、妻なりける者、また、かの病を継ぎて、病み臥せりけり。 「病まざらんすら、命もつぎがたきに、まして、後枕(あとまくら)も思えねば、命も絶えぬべく侍る」と、里の者の沙汰し侍りけるを、この僧、ほの聞きて、夜、人にも知られず、かの所に行きて見れば、火も灯さず、病み狂ひて、正念も侍らざりけるを、とかくこしらへて、しづめて、物覚ゆると見ゆるときは、念仏を勧めけり。 かくて、やうやく心地もよげに見ゆれば、えもいはぬ物などして勧めて、命をつぎけり。この病みける女は、持たる物も侍らねば、この僧の里にめぐりて、銭米を乞ひて、とかくいとなみて、人知られずして命をささへけり。しかあるのみならず、常は教化して念仏を申させけるとかや。 この聖のありさま、よろづにつけて哀れみの深くて、苦の多き有情の類を見ては涙を流されければ、目はいつも泣き腫れ、袂は干る間もなかりけるとかや。 かくて、さすらへおはしけるが、過ぎにし延久のころ、かの庵にて、三月二十五日の暁に、終りをとり給へり。「音楽、空に聞こえ、異香、室に満ちて、往生し給へり」と、伝には載せて侍り。 この人のありさま、『拾遺伝((一般に『拾遺往生伝』を指すが、この説話はない。))』に載せたりしを披見せしに、多く涙を流しき。座禅の床の上にては、眠をしのぎて飢ゑを忘れ、大悲の室の中には、闡提の誓ひとこしなへなりと侍るこそ、ありがたく貴く思えて、「かなはざらんまでも、このごとく心をおこさばや」と思ひて侍りしか。 ===== 翻刻 ===== 昔相模国大庭といふ野の中に如形の庵結て おれる僧一人侍りき時々里に出て物を乞てい/k202r つつ世をわたり侍りけるとかやさて其里に世心ちお ひたたしくはやりて高卑しつ心なくやみをり けり其中にする方もなく貧き物夫をすて になき物に見なして妻なりける者また彼病 を継てやみふせりけりやまさらんすら命も つきかたきにまして跡まくらもおほえねはい のちも絶ぬへく侍ると里の者のさたし侍り けるを此僧ほの聞て夜る人にもしられすかの 所に行てみれは火もともさすやみくるひて正 念も侍らさりけるをとかくこしらへてしつめて物/k202l 覚ると見ゆるときは念仏をすすめけりかくて 漸く心地もよけにみゆれはえもいはぬ物なと してすすめて命をつきけり此やみける女はもたる 物も侍らねは此僧の里に廻りて銭米を乞て とかくいとなみて人しられすしていのちをささへ けりしかあるのみならす常は教化して念仏を 申させけるとかや此聖のありさまよろつにつけて 哀の深くて苦のおほき有情類を見てはなみ たをなかされけれは目はいつもなきはれ袂は ひるまもなかりけるとかやかくてさすらへおは/k203r しけるか過にし延久の比かの庵にて三月廿五日の 暁におはりをとり給へり音楽空にきこえ異香 室にみちて往生し給へりと伝には載て侍り この人の有様拾遺伝に載たりしを披見せしに おほくなみたをなかしき坐禅の床の上にては 眠をしのきてうへを忘れ大悲の室の中には闡 提の誓とこしなへなりと侍るこそ有かたく貴 くおほえてかなはさらんまてもこのことく心をお こさはやとおもひて侍しか/k203l