撰集抄 ====== 巻7第2話(62) 経信卿花見(値僧連歌) ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、帥大納言経信卿((源経信))、「西山の花見ん」とて、さるべき数寄人どもいざなひつれて、「大井川の千本の桜ながむ」とて、川のほとりに居て、水の面にただよひ、花の波におぼれ、藻屑(もくづ)にまじるわざをなん歎きて、心を痛ましめ、心なき嵐を恨みなんどして、日ぐらしながめ給へりけり。 筏に乗り、向かひの端(はた)に漕ぎ寄せて、おのおの下り立ち、峰によぢ、谷に下りて、遊びなんどし給ひけるに、ある木のもとに、齢五十ばかりなるが、帷(かたびら)一つをなん着たる僧の、禅定する侍り。 人々、見付けて、むらがり寄りて、「何ごとをし給ふ人ぞ。いづくの誰がしといへる人にか」なんど尋ねられけるに、つゆばかりの答(いら)へもせず。ややほど経て、まづ、「人々は、何とてこれには来り給ふにか」と言ふに、経信、答(こた)へられけるやうは、「われは、花を見に来れり」とのたまはすれば、この聖、「われもしかなり」と言ふ。「深く思ひ入りたる人ならん」と見えければ、「法文の、心のはるけぬべき、のたまはせよ」とあながちに責められて、「煩悩即菩提。生死即涅槃」といふ文をぞ誦し侍りける。 「さればこそとよ。只人には((「人に」は底本「人々」。諸本により訂正。))おはせざりけるに」とて、重ねて、この文の心なんど問ひ合はれければ、まことに日ごろの闇もはるばかり言ひければ、おのおの、やがて、「髻(もとどり)おろして、同行とやならまし」と思ゆるほどにぞ侍りける。 「さても、この山にこもり居て、一人、人にもけがされず、悟り給はんは、さることにて侍れども、自利利他心平等なるこそ菩薩の行には侍れば、京ざまに出で給ひて、人をも教化し給へかし」と、おのおの勧め給へども、つゆばかりだに、「さり」と思したる心侍らねば、この聖の名残惜しきままに、誰々も宿へ帰り給ふことも侍らで((「侍らで」は、底本「侍られて」。諸本により訂正。))、さがしき山に浄衣をかたしきて、夜もすがら、法文をぞ問はれける。 夜明てのち、今はさのみあるべきわざならねば、この聖にも泣く泣く別れて、「また参らむ」なんど契りてのち、俊頼卿((源俊頼))かく、   なきてぞ帰る春のあけぼの とのたまひたるに、この僧、やがて、   またも来ん秋をたのむのかりだにも と付けたるに、いよいよ思ひ増して帰りき。その後、たづね行きたりけるには、見え侍らずとなん。 まことにあはれなることかな。山に深く住みて、理事即一の悟り開きていまそかりけん心の中、清滝の流れは濁るとも、この人の心の底は、つゆばかりも濁らじと思えて、ゆかしく侍り。およそ、俗は即ち真なり。真はやがて事なれば、谷の水をむすび、峰の薪を取り、手を打ち、足をはたらかすも、仏法にこそ。なにはのことか法ならぬなんども、悟らぬ人の前に、真俗おほきに隔歴((「隔歴」は底本「へたたり暦」。諸本により訂正。))して、善不善、本来替れり。この悟りの開けん、かへすがへすも貴く思ゆる。 さても、この経信、この仏法の名残を惜しみて、さがしき山路の谷あひに、岩根を枕にし、苔の衣を重ねて、夜を明かされけむも、おとらず貴く侍る。結縁、よもむなしからじ。あはれ、この世には、かかる人々はよもおはせじものを。 ===== 翻刻 ===== 中比帥大納言経信卿西山の花みんとてさるへき すき人ともいさなひつれて大井川の千本の桜/k199l なかむとて河のほとりにゐて水の面にたたよ ひ花の浪におほれ藻くつにましるわさをなん 歎て心をいたましめ心なき嵐をうらみなんとして 日くらしなかめ給へりけり筏にのり向のはたにこ きよせて各おりたち峰によち谷にくたりて あそひなんとし給ひけるに或木の本に齢五十 はかりなるか帷一をなんきたる僧の禅定する侍 り人々見付てむらかりよりて何ことをし給ふ 人そいつくの誰かしといへる人にかなんと尋られ けるに露斗のいらへもせすやや程へて先人々は/k200r 何とて是には来給ふにかといふに経信こたへ られける様は我は花を見に来れりとの給 はすれは此聖我もしかなりといふ深くおもひ入たる 人ならんと見えけれは法文の心のはるけぬへ きの給はせよとあなかちにせめられて煩悩即 菩提生死即涅槃と云文をそ誦し侍りける されはこそとよ只人々はおはせさりけるにとて 重て此文の心なんと問あはれけれは実日比のやみ もはるはかりいひけれは各やかて本取おろして 同行とやならましと覚る程にそ侍けるさて/k200l も此山にこもりゐてひとり人にもけかされす さとり給はんはさる事にて侍れとも自利々 他心平等なるこそ菩薩の行には侍れは京さ まに出給て人をも教化し給へかしと各すすめ 給へとも露はかりたにさりとおほしたる心侍 らねは此聖の名残をしきままに誰々も宿 へ帰り給ふ事も侍られてさかしき山に浄衣を かたしきて夜もすから法文をそ問れける夜 明て後今はさのみあるへきわさならねは此聖に も泣々別て又まいらむなんと契て後俊頼卿かく/k201r なきてそかへる春の明ほの との給ひたるに此僧やかて 又もこん秋をたのむのかりたにも と付たるに弥おもひ増て帰き其後尋行た りけるには見え侍らすとなん誠にあはれなる 事かな山に深くすみて理事即一の悟り開てい まそかりけん心の中清滝の流れはにこるとも 此人の心の底は露はかりもにこらしとおほえてゆ かしく侍り凡俗は艮真なり真はやかて事な れは谷の水をむすひ峰の薪をとり手をうち足/k201l をはたらかすも仏法にこそなにはの事か法ならぬ なんともさとらぬ人の前に真俗大にへたたり暦 して善不善本来替れり此悟の開けん返々 も貴くおほゆるさても此経信この仏法の名残 ををしみてさかしき山路の谷あひに岩根 を枕にし苔の衣を重て夜を明されけむも おとらす貴く侍る結縁よもむなしからしあは れ此世にはかかる人々はよもおはせしものを/k202r