撰集抄 ====== 巻6第11話(59) 武蔵野聖事 ====== ===== 校訂本文 ===== さいつころ、武蔵野を過ぎ侍りしに、東西南北、草のみしげりて人も住まず、草花((底本「花」なし。諸本により補う。))色々に咲きみだれて、ももうらに唐錦(からにしき)を広げたらん心地のし侍りて、   武蔵野は行けども秋のはてぞなきいかなる風かすゑに吹くらん と、はるばる思ひやり侍り。 かくて、やうやく分け入りて見侍るに、花を手折て家居せる僧あり。年は五十(いそぢ)ばかりにもやならんと見ゆるほどなり。花の机に法華経巻き並べて、「入於深山思惟仏道」と貴き声して読めりけり。 「何すぢの人ならん」と、ゆかしく思え侍りて、近寄り、くはしく尋ぬるに、「郁芳門院((白河天皇皇女、媞子内親王。))の侍に侍りしが、女院におくれ奉りし時、世のさだめなきはかなさの思ひ知られて、手づから髻(もとどり)切りて、住み慣れし都をば離れ侍りき。されども、何の勤めをすべしとも思ひさだめ侍らで、たどり歩(あり)き侍りしほどに、説法のみぎりにのぞみて侍しに、『法華経の中に、   十方仏土中 唯有一乗法 無二亦無三((底本「亦」なし。諸本、及び『法華経』により補う。)) と説かれて、一乗妙典に過ぎて、めでたき御法(みのり)なし』と説き聞こえ給ひしこと、『げに』と思えて、法花経を読み奉りて、後世のつととはし侍らんと思ひて、おこたらず読み奉るになん侍り。この野中に住みて、すでに多くの年を送りぬれど、御経の力にや、虎狼にもあやまたれず、また、食ひ物なんどは、時々ゆゆしき天童の来りて、雪の如くに白き物をゑたびぬれば、食はざる先に物の欲しくもなく侍るになん」と云へり。 すでに仙になりにけるにや。ことにありがたくぞ侍る。読誦・念仏なんどは、無智の者、必ず巨益にあづかることに侍り。この聖も、無智におはしけるなめり。しかあれども、読誦数積みて、すでに仙となれり。 われ、一つ悦べるところは、「かくのごとくに、いみじき人々あまた見侍りぬれば、さすがに縁起難思の力もむなしからじ」と思え侍り。世につかへましかば、はるかに雲居を見上げて、色なる袂に心をうつして、胸の煙は富士の高嶺にまがひ。袖の露は清見潟(きよみがた)の速きき波によそへて、日数は積もるとも、思ひははるる末なくて、むなしくこの世はくれぬべかりし身の、「はかなき世ぞ」と思ひなして、かく桑門のたぐひとなり侍りて、蓮台の月をのぞみ、聖衆の来迎を思ひて、「少しの善根をもし侍りぬ」と思ひ侍るをりは、法界の衆生にさなから及ぼして、一つ蓮(はちす)の上に廻向するに侍り。 そもそも、われらは無上念王のそのかみ、かの国の黎民なんどにて、縁を結び奉りけるにや。そぞろに、弥陀仏((阿弥陀如来))の、頼もしく貴く思え侍り。歎きの家、悲しみのとぼそにも、かこつかたとは、この仏の御名を唱へ奉り、恋慕愛惜のたぐひ、貧窮孤独の住処、荒屋灯消えて、秋風一人すさまじきやからまで、ただ頼むかたとは、この御仏のみなり。 されば凡夫((底本「凡」なし。諸本により補う。))と縁の深くいまそかりけることは、これにて知り侍りぬべし。 ===== 翻刻 ===== さいつころ武蔵野を過侍しに東西南北 草のみしけりて人もすます草色々に咲/k187l みたれてももうらにからにしきをひろけたらん 心ちのし侍りて武蔵野は行とも秋のはて そなきいかなる風かすゑにふくらんとはるはる 思やり侍りかくてやうやく分入て見侍に 花を手折て家居せる僧あり年は五そち 斗にもやならんとみゆる程なり花の机に 法花経まきならへて入於深山思惟仏道 とたうとき声してよめりけり何すちの人 ならんとゆかしく覚侍て近より委く尋ぬ るに郁芳門院の侍に侍しか女院にをくれ/k188r 奉し時世の定なきはかなさの思ひ知れて手 つからもととり切りてすみなれし都をははなれ 侍きされ共何のつとめをすへし共思定侍 らてたとりありき侍し程に説法の砌にのそ みて侍しに法花経の中に十方仏土中 唯有一乗法無二無三と説れて一乗妙典 にすきて目出みのりなしと説聞え給し 事けにと覚て法花経をよみ奉りて 後世のつととはし侍らんと思てをこたらす よみ奉になん侍り此野中に住てすてに/k188l 多の年を送ぬれと御経の力にや虎狼に もあやまたれす又くい物なんとは時々ゆゆしき 天童の来て雪の如に白き物をゑたひぬれは くはさるさきに物のほしくもなく侍るになんといへり(り) 既仙になりにけるにや殊ありかたくそ侍る読 誦念仏なんとは無智のもの必巨益にあつ かる事に侍り此聖も無智におはしけるな めりしかあれとも読誦数つみてすてに仙とな れり我一つ悦へる処は如此にいみしき人々あ また見侍ぬれはさすかに縁起難思の力も/k189r 空しからしと覚侍り世に仕へましかは遥に雲 ゐを見あけて色なる袂に心をうつしてむ ねの煙は富士のたかねにまかひ袖の露はきよ みかたのはやき浪によそへて日数はつもるとも 思ひははるるすゑなくて空しく此世はくれぬへ かりし身のはかなき世そと思ひなしてかく 桑門のたくひとなり侍りて蓮台の月を のそみ聖衆の来迎を思ひて少の善根を もし侍りぬと思ひ侍るおりは法界の衆生に さなから及ほして一つはちすの上に廻向す/k189l るに侍り抑々我等は無上念王のそのかみ彼国の 黎民なんとにて縁を結奉りけるにやそそ ろに弥陀仏の馮しく貴く覚侍り歎の 家悲のとほそにもかこつ方とは此仏の御名 を唱へ奉り恋慕愛惜のたくひ貧窮 孤独のすみか荒屋灯きえて秋風ひとり 冷しきやからまてたた馮方とは此御仏 のみなりされは夫と縁のふかくいまそかりける 事は是にてしり侍りぬへし/k190r