撰集抄 ====== 巻6第5話(53) ※前話のつづき ====== ===== 校訂本文 ===== 「西住聖人、わづらひのこと侍り」と聞きしかば、今は限りの対面もあらまほしく思えて、高野の奥より都にまかり出でて、聖の庵(いほり)にたづね行きて見侍れば、ことの外におとろへ て、はかばかしくものも言ひやらぬ。われをうち見て、「嬉しく」とて、涙ぐみしことのあはれに思え侍りて、そぞろに涙を落し侍りき。 「閑居のつれづれをば、われこそなぐさめ申すに、そこの一人残り給ひて、いかに多く歎かむ」とて、袂をしぼり侍れば、ただあはれさ身にあまりて、その夜は留りて、よろづひまなく、後のわざなんど聞こえしかば、「さりとも、やがてことはきれし」とこそ、思ひ侍りしに、その暁、西向きて、念仏して、終りをとり侍りき。 「今の別れはまことに悲しく侍れども、一仏浄土の再会はさりとも」と、心をやり侍りて、涙をおさへて、最後の山送りして、泣く泣く煙となし、骨を拾い取りて、「高野に」と心ざし侍りき。 そのいとなみし、侍りし、をりふし、花山院中将、必ず参るべき由(よし)、仰せ給ひて侍りしかば、西住聖人のことも申さまほしくて((「まほしくて」は底本「はほしくて」。諸本により訂正。))、参りて「かく」と申すに、涙にくれ給ひて、「この春、東山の花見にともなひ給へりしことの、最後の対面にありけるぞや」とて、   なれなれて見しは名残の春ぞともなどしら川の花のした風 と、うちすさみ給へるに、ことにあはれに思え侍りき。 帰る道すがら、露けくて、墨染の藤衣、色変るまで侍りき。仙洞忠勤のそのかみより、鵞王帰依の今まで、深く契りを結びて、いづれの所へもいざなひつれ侍りしに、おくれしかば、げに生きてあるべくも思え侍らず。 草木を見るにつけても、かき暗さるるままに、帰るさの月の光もおぼろに見えて、いとど心も晴れやらぬに、風、篠(しの)の葉草にゆるく通り、草の露もろく、もの悲しき折節、初雁が音(ね)、雲井ほのかに鳴き渡るを聞くに、行宮にあらざれともはらわたを断ち、千鳥にあらざれども、心をいたましめ侍りき。 かくて、高野へ帰りて、夢に見るやう、ありし聖人来て、「我は都卒((都率天・兜率天))の外院に生れぬ」と見て、夢覚めにき。かく聞きしのちは、「内院にあらざることのうらめしさよ」と思ふかたも侍れども、外院もまた貴くぞ侍る。もし、昔のごとく、在俗にて朝に宮仕ひせしかば、あに外院の往生をとげましや。今生は実に鬢(びん)を掻き、装束を正(ただ)しくして、御門の御まなじりにかかり、禁中に出で入りし、ゆゆしく侍るに、年かたぶきて、髻(もとどり)を切り、月代(つきしろ)見えわたり、麻の衣にやつれるは、をこがましきに似たりといへども、まことの心とはこれにぞ侍るらん。 この世ははかなく、あだなる境なり。それに、「しばしのほどを経ん」とて、名利にほだされて、長劫の間、三途のちまたに沈み侍らんには、かへすがへす、くちをしきことにはあらずや。頼みをかけし主君も助け給はず。あはれみ、はぐくみし妻子・眷属も、中有の旅にはともなひやはし侍る。ただ一人悲しみ、一人迷へるは、これ世にある人の後の世に侍り。いはんや、妻子を振り捨て、面白き所々をも拝み、山々寺々をも修行し侍るは、なかなかに楽しくぞ侍るべき。 もとより、世に無ければ、望みもなし。望み無ければ、恨みもなし。恐しき主君も侍らねば、御勘気をも蒙らず。いとほしき妻子も持たねば、貪着もおこり侍らず。財宝を身にそへねば、野山に臥すも、盗人の恐れ侍らず。また、かかる世捨人には、何の敵か侍らん。後世の昇沈はまた申すに及ばず。 ===== 翻刻 ===== 西住聖人わつらいの事侍りと聞しかは今は限の対面も あらまほしく覚て高野の奥より都に罷出 て聖のいほりに尋行て見侍れは事の外におとろへ てはかはかしく物もいひやらぬ我をうちみて嬉し くとて涙くみし事の哀に覚侍てそそ ろに泪を落し侍き閑居のつれつれをは我こそ なくさめ申にそこのひとり残給ていかにおほくな けかむとて袂をしほり侍れはたたあわれさ身に あまりて其夜は留りてよろつひまなく後 のわさなんと聞えしかはさり共やかて事はきれ/k168r しとこそ思侍しに其暁西向て念仏して終り をとり侍き今の別は実にかなしく侍れ共一仏 浄土の再会はさり共と心をやり侍て涙を おさへて最後の山送して泣々煙となし骨を ひろいとりて高野にと心さし侍き其いとな みし侍しおりふし花山院中将かならす参るへき 由仰給て侍しかは西住聖人の事も申さは ほしくてまいりて角と申に涙にくれ給て此 春東山の花見にともなひ給へりし事の最後 の対面にありけるそやとて/k168l なれなれて見しは名残の春そとも なとしら川の花のした風 とうちすさみ給へるに殊に哀に覚侍き帰道 すから露けくてすみ染の藤衣色かはる迄 侍りき仙洞忠勤のそのかみより鵞王帰依 のいままてふかく契を結て何の所へもいさなひ つれ侍しにおくれしかはけにいきてあるへくも覚 侍らす草木をみるにつけてもかきくらさるる ままにかへるさの月の光もおほろにみえていとと 心もはれやらぬに風しののは草にゆるくと/k169r をり草の露もろく物かなしき折ふし初雁かね 雲井ほのかに啼わたるを聞に行宮にあら されともはらわたをたち千鳥にあらされ共 心をいたましめ侍きかくて高野へ帰て夢に 見るやうありし聖人来て我は都卒の外院に 生れぬと見て夢さめにきかく聞し後は内院に あらさる事のうらめしさよと思ふ方も 侍れとも外院も又貴くそ侍るもし昔の ことく在俗にて朝に宮仕せしかはあに外院の 往生をとけましや今生は実にひんをかき装束/k169l をたたしくして帝の御まなしりにかかり禁中 に出入しゆゆしく侍るに年かたふきてもととり を切月しろ見えわたりあさの衣にやつれるはおこか ましきに似たりといへ共実の心とは是にそ侍る らん此世ははかなくあたなる堺也それにしはしの 程をへんとて名利にほたされて長劫の間三途 のちまたにしつみ侍らんには返々口惜き事 にはあらすやたのみをかけし主君もたすけ 給はすあはれみはくくみし妻子眷属も中 有の旅にはともなひやはし侍るたたひとりかなしみ/k170r ひとりまよへるはこれ世にある人の後の世に侍り況 や妻子をふり捨て面白所々をも拝み山々 寺々をも修行し侍るは中々にたのしくそ 侍へきもとより世になけれは望もなし望なけ れは恨もなしおそろしき主君も侍らね は御勘気をも蒙らすいとをしき妻子 ももたねは貪着もおこり侍らす財宝を 身にそへねは野山にふすも盗人の恐侍ら す又かかる世捨人には何の敵か侍らん後世 の昇沈は又不及申/k170l