撰集抄 ====== 巻6第3話(51) 林懐僧都 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、唐院僧都林懐とて、山階寺の貫首にて、年久つめる有智の人いまそかりける。いとけなかりけるそのかみ、神無月のころ、木々の紅葉の、嵐にさそはれて、庭に積もり、時雨かき暗し、霰(あられ)まじりて、木の葉の上に落つと見れば、かつ消えゆくを見るに、先の世の宿善やたよりを得て開けし。たちまちに無常を悟りて、をさをさしき心に袂をうるほすまでに涙し ほれて、父母の前に詣でて、「われをば僧になしておき給へ」とねんごろに聞こえければ、今さらあやしく思えて、くはしく思ふやうを尋ぬるに、「世の無常の心にしみて、よろづあはれになむ侍れば、仏の教へにしたがひて、頭おろし侍りて、後の世をもとり、誰々の人をも、導き奉らんと思ふに侍り」と言ふに、あはれに思えて、十三といひける年の春ごろ、山階寺の別当空晴の室に入りて侍りけり。 一を聞きては十を知り、十を習ひては百を悟るのみならず、飢ゑを忍び、眠りをしのぎ、素月の光に向ひては、夜もすがら唯識十軸の紐を解き、深窓に雪を集め、蛍火を求めて、学問おこたらざれば、ほどなく一登して、別当年久しくし給へりける。 さても、この人、若くおはしましける時、仲算大徳にともなひて、熊野へ参り給へりけるに、那智の御滝のすそにて、仲算大徳、心経((般若心経))を貴く読み給へりければ、滝、逆に流れて、滝の上に生身の千手観音のまさしく顕(あらは)れていまそかりけるを、まのあたり拝み給ひけるとなん。仲算大徳の徳行はさることにて、拝み給へる林懐、ありがたきことになん。そのころ申し侍りけるとぞ。 さても、この人、発心の始め、ことにありがたく、まれなるためしなるべし。世のはかなく、あだにて、宵(よひ)に朗月にうそぶきしたぐひ、暁は東岱((底本「東代山」。「岱」の誤写とみて訂正。))の雲に隠れ、朝に花になづさへし人、夕べに無常の風にさそはるる憂き世の中とは知りぬれども、深く無明の酒に酔(ゑ)ひて、愛着の綱に引かれて、頭(かしら)の雪そぞろに数を重ね、額の波多く畳みて過ぐせるは、人の心ぞかし。さるに、この林懐の齢一旬にあまりにして、嵐にたぐふ木の葉、取らんとすれば消ゆる玉霰を見て、たちまちに浮世の無常を悟りて((「悟りて」は底本「惜て」。諸本により訂正。))、不覚の涙を落されけんは、おろおろの宿善にはあるべしとも思えず。 あはれに貴かりけることかな。いかなれば、人は無常を悟るぞ。いかなれば、われはむなしく迷ふらん。いとけなきすらこの理(ことはり)を悟るに、など年のみ積りて頭(かうべ)は雪、眉は霜にまがふまでになりぬれども、身にしみ、涙のこぼるるを思えざらんと、くちをしといへども、一つ悦(よろこ)べることあり。 仙洞忠勤の昔は、「人によろづまさりて、つゆばかりも思ひおとされじ」と侍りしかば、九夏三伏の暑きにも、汗をのごひて、ひめもすに庭中にかしこまるをこととし、玄冬素雪の寒さにも、嵐を友として、砂に臥しても、竜顔の御いきざしをまもりて、いささかも背き奉らじと振舞ひ侍りき。 情けある色の女にあひなれては、嵐もの憂く吹きて、峰に分かるる横雲の空を悲しみ。面影も契りしも忘れずながら、うつつとも思えねば、夢かと分きかねても、誰に問はまし草の原、色変る露をば袖に置き迷ひても、霜枯れ果てし((「果てし」は底本「はててし」。諸本により衍字とみて削除。))野辺の憂さなんどを悲しみ、ある時は月にうそぶき、ある時は花になれて、月日のいたづらに明け暮るるをも知らずしてまかり過ぎしに、思はざるに、長承の末の年より、無常心にしみて、君の忠勤よしなくて、妻子をふり捨て出で侍りしかば、わが身は流浪の桑門となり、契りを結びし女は飾りおろして、高野の別所とかやに住み侍り。娘はゆかりにつきて、都にとどまりきと承はりき。妻子三所(みところ)に別れて、むつごと述ぶるわざも侍らず。 さても、胡馬北風に嘶(いば)へ、越鳥南枝に巣くふと言ひ習はせるにや。天の濡れ衣思ひ見で、また旧里に寄り来て、住みなれし所を見るに、築地(ついぢ)崩れて、門の傾(かたぶ)きたりしを見しに、何となくあはれに思えて、立ち入り見れば、ありしにもあらず荒れ果てて((底本「果てし」。諸本により訂正。))、人のかよふ気色もなし。軒の苔、垣の蔦、風ぞわづかに払ひ侍る。葺くことなければまばらにて、時雨も月もたまらじな。心のままに茂れる草の原には、虫の声々鳴きわたり、ここを寝屋とこそしむべけれど、思ひ侍る所までも、さながら虫の住処(すみか)となりて、ことに面白く侍しかば、かへりてまた、「これにもかくて住まばや」と思え侍りき。 「身は旧宅のごとし」といふ文あり。この住処の荒れたるさま、わが身の無常思ひ知られて、いとど袂をしぼりて帰り侍りき。 ===== 翻刻 ===== 昔唐院僧都林懐とて山階寺の貫首にて 年久つめる有智の人いまそかりけるいとけ なかりけるそのかみ神無月の比木々の紅葉の嵐に/k159 さそはれて庭につもり時雨かきくらしあられ ましりて木の葉のうへにおつとみれはかつ きえゆくをみるに先の世の宿善やたより を得てひらけし忽に無常をさとりて おさおさしき心に袂をうるをすまてに涙し ほれて父母の前にまうてて我をは僧に なしておき給へとねんころに聞えけれは今 更あやしく覚て委く思ふ様を尋に世 の無常の心にしみてよろつ哀になむ 侍れは仏のをしへに随てかしらおろし侍りて/k160r 後よをもとり誰々の人をも導き奉らんと 思ふに侍りといふに哀に覚て十三といひ ける年の春比山階寺の別当空晴の室に 入て侍りけり一を聞ては十をしり十を 習ては百をさとるのみならすうへをしのひ眠を 凌素月の光に向ては夜もすから唯識十軸 のひもをとき深窓に雪をあつめ蛍火をもと めて学問をこたらされは程なく一登し て別当年ひさしくし給へりけるさて も此人若く御座ける時仲算大徳に/k160l ともなひて熊野へまいり給へりけるに那智 の御瀧のすそにて仲算大徳心経を貴く よみ給へりけれは瀧逆になかれて瀧の上 に生身の千手観音の正しく顕れて いまそかりけるをまのあたりおかみ給けると なん仲算大徳の徳行はさる事にてをかみ 給へる林懐ありかたき事になん其比申 侍りけるとそさても此人発心のはし め殊にありかたくまれなるためしなるへし 世のはかなくあたにて夜ゐに朗月にうそ/k161r ふきしたくひ暁は東代山の雲にかくれ朝に 花になつさへし人夕に無常の風にさそはるる うき世中とはしりぬれ共深く無明の酒に ゑひて愛着のつなにひかれてかしらの雪 そそろに数をかさね額の浪多くたたみ て過せるは人の心そかしさるに此林懐の 齢一旬にあまりにして嵐にたくふ木の葉 とらんとすれはきゆる玉霰をみて忽に浮 世の無常を惜てふかくの涙をおとされけん はおろおろの宿善には有へしともおほえす/k161l 哀に貴かりける事かないかなれは人は 無常を悟そいかなれは我はむなしく迷らん いとけなきすら此理をさとるになと年の み積てかうへは雪眉は霜にまかふまてに なりぬれとも身にしみ涙のこほるるを おほえさらんと口惜といへとも一つ悦へる 事あり仙洞忠勤のむかしは人によろ つまさりて露はかりも思ひおとされし と侍しかは九夏三伏のあつきにもあせ をのこひてひめもすに庭中にかしこまるを/k162r 事とし玄冬素雪の寒にも嵐をともと して砂に臥ても龍顔の御いきさしを 守て聊もそむき奉らしとふるまひ侍 き情ある色の女にあひなれては嵐ものう く吹て峰にわかるるよこ雲のそらをかなし み面かけも契しもわすれすなからうつつとも おほえねは夢かとわきかねても誰に とはまし草の原色かはる露をは袖に をきまよひても霜かれはててし野辺の うさなんとをかなしみ或時は月にうそふき/k162l 或時は花になれて月日のいたつらに明暮 をもしらすしてまかり過しに思はさるに長 承の末の年より無常心にしみて君の忠 勤よしなくて妻子をふり捨て出侍し かは我身は流浪の桑門となり契を結 ひし女はかさりおろして高野の別所とかやに すみ侍り娘はゆかりにつきて都にとと まりきと承はりき妻子三ところに別 てむつことのふるわさも侍らす扨も胡馬 北風に嘶へ越鳥南枝に巣くふといひ/k163r ならはせるにやあまのぬれきぬおもひみて 亦旧里によりきて住なれし所をみるに ついちくつれて門のかたふきたりしをみし になにとなく哀に覚て立入みれはありし にもあらす荒はてし人のかよふ気色もなし 軒の苔かきの蔦風そ僅に払ひ侍る ふく事なけれはまはらにて時雨も月も たまらしな心のままにしけれる草の原に は虫のこゑこゑ啼わたりここをねやとこそ しむへけれと思侍る所まてもさなから虫のすみ/k163l かとなりてことに面白侍しかは返て又是にも かくてすまはやとおほえ侍き身は旧宅の 如しと云文ありこのすみかのあれたるさま我 身の無常おもひしられていとと袂をしほりて 帰り侍き/k164r