撰集抄 ====== 巻5第8話(41) 勝円僧正事 ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、修学院の僧正勝算の御弟子に、勝円阿闍梨といふ人いまそかりける。智恵のさきらいみじくて、また道心堅固に侍り。 住山の折節(をりふし)、冬深くなりて、あまた重ぬる袂すら、なほ風寒み身にしみ、床に霜たたへて、寒さ堪へがたかりけるに、「いかに、乞食どもの、かた全(また)きものも着で、土((「土」は底本「云」。諸本により訂正))に冷え寝(い)ねけん。さこそ耐へがたく侍らめ」と深く慈悲をおこして、ありとあるものを、さながらひちさげて、「一つづつ与へん」と思ひて、たづね歩(あり)かるるほどに、四つの小袖を四人に皆々施(ほどこ)して、われ着のままの小袖一つ、帷一つを着て帰られけるに、谷の方におめく声の聞こえければ、「何なるらむ」とあはれに思えて、声をたづねて降り下り侍るに、うばら足にかかり、おどろ身をまとふ。「かかる所には、さて、何者なればあるらむ」と思えて、いとど涙ぞもれ出で侍りける。 からくして降りたれば、筵の破れたるを、わづかに腹ばかりに宛てて、もの言はず泣きけり。阿闍梨、手を取りて、「いかに、いかに」とのたまはするに、「この上の房の際(きわ)に寝ねて侍りつるが、このの寒さに、あちこち寝直らんとし侍りつるほどに、落ちて、みなみなうち欠きて、血多くあえて、寒く痛きことなのめに侍らず」と言ふ。「げにも」と、あはれに思えて、わが小袖を脱ぎて着せければ、「同じくは、その帷をも着せ給へ」と言ふ。「いといと安し」とて着せられ侍り。わが身は、さばかりの寒さに、ひた裸にて、乞食の手を取りてぞおはしける。 かくて、夜半も明けむずれば、「裸なるありさま、朝、戸開けぬさきに帰りなん。さて、人をおこせむ」とのたまひけるに、この乞食、「いやいや、ふつに思ひ寄らず。帰り給ひなば、長き恨みにし侍るべし」と言へば、「さこそ、心弱く思ふらめ」と思ひて、かたはらに泣きおはするほどに、はや山の端(は)白みて、寺々の鐘の音も聞こえけり。 この乞食、「さらば、われを負ひて、この上へ越し給へ」と言ひければ、からうじて負ひ越しぬ。「ここに下し給ひね」とて言ふを、「痛む所やあらん」と、やをら下して見返り給ひたれば、故勝算の行ひ古し奉り侍る十一面観音に、わが小袖を着せ奉りてけり。「こはいかに」と思ふほどに、目もくれて、手を合はせ、涙を流して、尊容をいだき奉りてけり。所は山の麓(ふもと)とこそ思ひしに、わが住所にて侍りけり。やがて、三井寺の勝算の房にぞ置き奉りける。 あはれに貴く侍りけることかな。仏菩薩にておはしまさずは、誰かはかくばかり慈悲深からん。慈悲は諸善の根本、諸仏の体なり。もし、かの心なくは、一切功徳さらに立つべからず。「発心僻越しぬれば、万行いたづらにほどこす」とはこれなり。しかれば、誰も、「この心をおこさばや」とこそ思ひ侍れど、瞋恚の境界、あながちに来る時、杖を取り、歯を食ひしばるならひ、まことに力なきことに侍り。 しかるに、この聖、そぞろに無縁の大悲のおこりけん、ことに貴くぞ侍る。さればこそ、観音のその貴き機をかがみおはしまして、始めは憂の姿を化し、終りはもとの御姿を顕はし給ひけん。げに、世の末にはあるべしとも思えぬことなり。 ===== 翻刻 ===== 昔修学院の僧正勝筭御弟子に勝円阿闍 梨と云ふ人いまそかりける智恵のさきらいみ しくて又道心堅固に侍り住山の折節冬 深く成てあまた重ぬる袂すらなを風さむみ 身にしみ床に霜たたへてさむさたへかたかりけ るにいかに乞食共のかた全き物もきて云に ひえいねけんさこそたへかたく侍らめと深く慈 悲を発て有とある物をさなからひちさけて 一つつあたへんと思ひて尋ありかるる程に四の/k127r 小袖を四人に皆々ほとこして我きのままの小袖一 帷一をきて被帰けるに谷の方におめく声のき こえけれは何なるらむと哀に覚て声を尋て おり下り侍るにうはら足にかかりおとろ身をまとふか かる所にはさて何ものなれは有らむと覚てい とと涙そもれいて侍りけるからくしておりたれは 筵のやれたるを僅に腹はかりに宛て物いわすなき けり阿闍梨手をとりていかにいかにとの給はするに 此上の房のきわにいねて侍りつるか此のさむさに あちこちねなをらんとし侍りつるほとに落て/k127l 皆々うちかきて血おほくあへて寒いたき事なのめ に侍らすといふけにもと哀におほえて我小袖 をぬきてきせけれは同くは其帷をもきせ給へと 云ふいといと安しとてきせられ侍り我身はさは かりの寒さにひたはたかにて乞食の手を取て そおはしけるかくて夜半もあけむすれははたか なるありさま朝戸あけぬ先にかへりなんさて人 をおこせむとの給けるに此乞食いやいやふつに 思寄すかへり給なは長き恨にし侍るへしと云へはさ こそ心弱おもふらめと思ひて傍になきおはする程にはや/k128r 山の端しらみて寺々の鐘の音も聞へけり此乞食 さらは我をおいて此上へこし給へと云けれはからう しておゐこしぬ爰におろし給ねとていふをい たむ所やあらんとやをらおろして見返り給たれは 故勝筭の行ひふるし奉り侍る十一面観音に 我小袖をきせ奉りてけりこはいかにと思ふ程に目 もくれて手を合涙を流して尊容をいたき奉 てけり所は山の麓とこそ思しに我住所にて 侍りけりやかて三井寺の勝筭の房にそ奉置 ける哀に貴く侍りける事哉仏菩薩にておはし/k128l まさすは誰かはかくはかり慈悲深からん慈悲は諸 善の根本諸仏の体也若彼心無は一切功徳更 立へからす発心僻越しぬれは万行いたつらに ほとこすとは是なりしかれは誰も此心をおこさはやと こそ思侍れと瞋恚の境界強に来る時杖を とりはをくいしはる習実に無力事に侍り然るに 此聖そそろに無縁の大悲の起けん殊に貴そ 侍るされはこそ観音の其貴機をかかみおはしま して始は憂の姿を化し終は本の御姿を 顕給けんけに世のすゑには有へし共覚へぬ事也/k129r