撰集抄 ====== 巻5第2話(35) 近宗発心(依妻女嗔) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、頼義((源頼義))が郎等に、大瀬の三郎近宗といふ者侍り。むらなき高の者にて侍りけり。頼義に具して、貞任を責めける時、多くの者を害したりける罪を思ひて、常には心を澄して、念仏をぞ申しける。 かくて、年月を過ぐすほどに、しかるべき善知識識にや侍りけむ、日ごろつれたりける女、さしもの事もなかりけるに、気悪(けあ)しく腹立ちて、瞋恚の炎おびたたしく炊き上げたりけるを見て、けうとくあさましくて、いづちともなくまぎれ出でて、手づから髻(もとどり)押し切りて、所々し歩(あり)きて、念仏し侍りけるなり。善悪に強かりける心なればにや、道心よぎりなく見え侍りけるなり。 あちこちさそらへ行きけるが、越路のかたに落ち留まりて、人も問ひ来ぬ山中に、わづかなる草の庵(いほ)を結びて、彼に居をしめてけり。着たる麻の衣の間遠(まどほ)なるほかには、るゆばかりも物も侍らざりけり。明け暮れの食事、人のあはれみにて、とかくしてぞ過しける。 ある時、人の食を持ちて行きたりければ、「今日よりも五日はさしな入り給ひそ。ちとつつましきこと侍り」といふ。「さらなり」と((底本「と」なし。諸本により補入。))ことうけして、約束のままに、五日さしも入り侍らず。かくて、五日過ぐるや遅きと、六日の朝、かの所へ行きてく見ければ、西に向ひて終りけり。その姿、生きたる人のごとし。 まことに、ありがたかりけることには侍らずや。理をわきまへる人すら、この枷(かせ)ぎはさりやらぬわざなるを、思ひはかりなき身にて、瞋恚をいとひて、住みなれし境を捨て、山深く思ひ入りつらむ心ばせ、ことごとたとへもなくぞ侍る。 おほかた、「随心浄処即浄土摂」と説かれ侍れば、心だにも澄みなば、浄土ぞかし。しかはあれども、いづれの所も浄土にして、なじかはなれど、乱れやすき心の、澄みがたきには、悪しき境・悪しき友に会ひなんには、なにとてか乱れざるべき。「われは嗔(いか)り起さじ」と念じ侍れど、人、ゆゑなく腹立つには、また我も怒ることにこそ。 しかれば、これを振り捨てて、知らぬ所にも行くべきを、心弱きの願ひは、「ここ住みよし」と思はねど、われときざせる思ひ失せやらで離れえぬに、思ひとりけむ心なれば、「何とてかは、仏の御心にも背き奉るべき」と、昔の跡を思ひやれば、ただ今も、「さる心の付けかし」と思はれて、涙、げにところせきまで侍れば、「縁起難思のかぎりならむ」と、いとど貴(たつと)く侍る。 ===== 翻刻 ===== 昔頼義か良等に大瀬の三郎近宗と云者侍 りむらなき高の者にて侍りけり頼義に 具て貞任を責ける時多のものを害したりける 罪を思て常には心を澄して念仏をそ申 けるかくて年月をすくす程に可然善智/k117r 識にや侍りけむ日来つれたりける女さしも の事もなかりけるにけあしく腹立て瞋恚の ほのをおひたたしくたきあけたりけるを見てけ うとく浅猿くていつち共なくまきれ出て手 自もととり押切て処々しありきて念仏し 侍りける也善悪につよかりける心なれは にや道心よきりなく見え侍りける也あちこちさ そらへ行けるかこしち方に落留て人もとい こぬ山中に僅なる草のいほを結て彼に 居をしめてけりきたるあさの衣のまとを/k117l なる外には露はかりも物も侍らさりけりあけく れの食事人の哀にてとかくしてそ過ける或時 人の食をもちて行たりけれは今日よりも五日は さしな入給そちとつつましき事侍りといふさら 成りことうけして約束のままに五日さしも入侍 らすかくて五日すくるやをそきと六日の朝かの 処へ行て見けれは西にむかひてをはりけり其 姿いきたる人のことし真に有難かりける事 には侍らすや理をわきまへる人すら此かせき はさりやらぬわさなるを思はかりなき身にて瞋恚/k118r を厭てすみなれし堺を捨て山深く思入つらむ 心はせことことたとへも無そ侍る大方随心浄処即 浄土摂と説れ侍れは心たにも澄なは浄土そ かししかはあれ共何の所も浄土にしてなしかはな れとみたれやすき心の澄かたきには悪き堺 悪友に合なんにはなにとてか乱れさるへき我 は瞋不起とねんし侍れと人故なく腹立に は又我も起る事にこそしかれは是を振捨て 智ぬ所にも行へきを心よはきの願はここ住吉 と思はねと我ときさせる思ひうせやらて離/k118l へぬに思ひとりけむ心なれは何とてかは仏の御心 にもそむきたてまつるへきとむかしのあとを思ひ やれは唯今もさる心のつけかしと思はれて涙 けにところせきまて侍れは縁起難思のかき りならむといととたつとく侍る/k119r